石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思ふばかり、家庭の封建的習性といふものゝあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与へられてをらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されてゐるのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかつた。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二三十年後になつて自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性といふものにギリ/\のところまで追ひつめられてゐるけれども、離婚しようといふ実質的な生活の生長について考へを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化といふ遊戯にふけつてゐるだけで、真実の人間、自我の探求といふものは行はれてゐない。自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺といふ不誠実なものを誠意あるものと思ひ、離婚といふ誠意ある行為を不誠実と思ひ、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかつた。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリ/\のところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そつちに悟りがないといふので、物それ自体の方も諦めるのである。かういふ馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考へて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来かういふフザけたもので、漱石はたゞその中で衒学《げんがく》的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみたゞけで、自我の誠実な追求はなかつた。
 元より人間は思ひ通りに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物は我が手に入らず、手の中の玉は逃げだし、希望の多くは仇夢《あだゆめ》で、人間の現実は概ねかくの如き卑小きはまるものである。けれども、ともかく、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくづれるけれども、諦めや慟哭は、くづれ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。人間は先づ何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考へるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考へて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であつても、それを意とするには及ばない。
 私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。私はたゞ人間、そして人間性といふものゝ必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、といふだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だといふだけである。人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。
 日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとつて、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとつては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の絢《あや》は、一般的な解説によつて理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行はれる永遠に独自なる世界である。これを個性と云ひ、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だらうか。
 私はたゞ、私自身として、生きたいだけだ。
 私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はたゞ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないやうに、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつゞけ、そして、私は書きつゞけるであらう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰へざらんことを。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四三巻第一〇号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新潮 第四三巻第一〇号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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