ではなく、悪徳だと思つてゐる。
 困苦欠乏に耐へる日本の兵隊が困苦欠乏に耐へ得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、耐乏の美徳といふ日本精神自体が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたつた五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だといふ。機械にたよつて肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だといふ。かういふフザけた退化精神が日本の今日の見事な敗北をまねいたのである。かういふ馬鹿げた精神が美徳だなどと疑られもしなかつた日本は、どうしても敗け破れ破滅する必要があつたのである。
 然り、働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考へ得ず、一服吸つてポンと叩く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いてゐた日本の精神はどうしても破滅する必要があつたのだ。
 美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくつて大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であつて、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。
 人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言へないやうな子供の育て方の不健全さといふものは言語道断だ。
 処女の純潔などといふけれども、一向に実用的なものではないので、失敗は成功の母と言ひ、失敗は進歩の階段であるから、処女を失ふぐらゐ必ずしも咎むべきではなからう。純潔を失ふなどゝ云つて、ひどい堕落のやうに思ひこませるから罪悪感によつて本格的に堕落の路を辿るやうになるので、これを進歩の段階と見、より良きものを求める為の尊い捨石であるやうな考へ方生き方を与へる方が本当だ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与へるのだ。単なる処女の如き何物でもないではないか。尤も無理にすて去る必要はない。要は、魂の純潔が必要なだけである。
 失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭といふものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変といふ意外千万な大看板をかゝげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思つてゐる。家庭が娼婦の世界によつて簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さに就て、人間性に根ざした究明が又文学の変らざる問題の一つが常にこのことに向つて行はれる必要があつた筈だと私は思ふ。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあひ、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
 別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかも知れぬといふ事の中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康な筈なのである。然しなるべく永遠であらうとすることも同じやうに健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、又、精神から肉体へ価値の変化や進化が起る。価値の発見も行はれる。そして生活自体が発見されてゐるのである。
 問題は単に「家庭」ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質に於て人間が欠けてをり、生殖生活と巣を営む本能が基礎になつてゐるだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーをつくつてをり、それが又思惟や思想の根元となつて、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。けれども、さういふ思想が贋物にすぎないことは彼等自身が常に風景を裏切つてをり、日本三景などといふが、私は天の橋立といふところへ行つたが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであつたし、伊勢大神宮参拝の講中が狙つてゐるのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本に於て最も淫靡な遊び場である。尤も日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもたゞ女の下等な肉体がころがつてゐるにすぎないのである。
 夏目漱石といふ人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、かういふ家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はたゞ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れてゐた。つまり彼は人間を忘れてゐたのである。かゆい所に手がとゞくとは漱
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