肉体的な論理の思考がない代りに、型の論理が巧みに健康に思考しているといふ意味なのである。
藤村が真実怖れ悩んでゐることは小説には表はれてゐない。それに又、彼が真実怖れ悩んでゐることは決して文学自体の自己探求による悩みではなく、単に世間といふことであり、対世間、対名誉、それだけの「健康」なものだつた。彼はちやうど、例へば全軍の先頭に死なざるを得なかつた将軍の場合と同じやうに(この将軍が本当は死を怖れてゐることは敗戦後我々は多すぎる実例を見せられてきた)藤村も勇をふるつて己れと姪との関係を新聞に発表した。けれども将軍の遺書が尽忠報国の架空の美文でうめられてゐると同様に、彼の小説は型の論理で距離の空白をうめてゐるにすぎない。
何故彼は「新生」を書いたか。新らしい生の発見探求のためであるには余りにも距離がひどすぎる。彼はそれを意識してゐなかつたかも知れぬ。そして彼は自分では真実「新生」の発見探求を賭けてゐるつもりであつたかも知れないのだが、如何せん、彼の態度は彼自身をすらあざむいてをり、彼が最も多く争つたのは文学のための欲求ではなく、彼は名誉と争ひ、彼自らをも世間と同時にあざむくために文学を利用したのだと私は思ふ。私がこれを語つてゐるのではなく、「新生」の文章の距離自体がこれを語つてゐるのである。彼は告白することによつて苦悩が軽減し得ると信じ、苦悩を軽減し得る自己救済の文章を工夫した。作中の自己を苦しめる場合でも、自分を助ける手段でしかなかつた。彼は真に我が生き方の何物なりやを求めてゐたのではなく、たゞ世間の道徳の型の中で、世間を相手に、ツジツマの合つた空論を弄して大小説らしき外見の物を書いてみせたゞけである。これも彼の文章の距離自体が語つてゐるのである。
彼がどうして姪といふ肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかといふと、彼みたいに心にもない取澄し方をしてゐると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かつたのだと思ふ。
彼は姪と関係してその処理に苦しむことよりも、ポーズを破つて知らない女を口説く方がもつと出来にくか
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