気せまるものがあるとか、平野君、フザけたまふな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがつてゐて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。むしろ最も軽蔑すべきところである。こんな風に書けば人が感心してくれると思つて書いたに相違ないところで、第一、平野君、自分の手をつく/″\眺めてわが身の罪の深さを考へる、具体的事実として、それが一体、何物です。
自分の罪を考へる、それが文学の中で本当の意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して表はれるところにあるので、手をひつくり返して眺めて鬼気迫るなどとは、ボーンといふ千万無量の鐘の思ひと同じこと、海苔をひつくり返して焼いて、味がどうだといふやうな日本の幽霊の一匹にすぎないのである。
島崎藤村は誠実な作家だといふけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離といふものを見れば分る。藤村と小説とは距《へだた》りがあつて、彼の分りにくい文章といふものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘といふものではない。
これと全く同じ意味の空虚な悪戦苦闘をしてゐる人に横光利一があり、彼の文学的懊悩だの知性だのといふものは、距離をごまかす苦悩であり、もしくは距離の空虚が描きだす幻影的自我の苦悩であつて、彼には小説と重なり合つた自我がなく、従つて真実の自我の血肉のこもつた苦悩がない。
このやうに、作家と作品に距離があるといふことは、その作家が処世的に如何ほど糞マジメで謹厳誠実であつても、根柢的に魂の不誠実を意味してゐる。作家と作品との間に内容的には空白な夾雑物があつて、その空白な夾雑物が思考し、作品をあやつり、あまつさへ作家自体、人間すらもあやつつてゐるのだ。平野謙にはこの距離が分らぬばかりでなく、この距離自体が思考する最も軽薄なヤリクリ算段が外形的に深刻真摯であるのを、文学の深さだとか、人間の複雑さだとか、藤村文学の貴族性だとか、又は悲痛なる弱さだとか、たとへばそのやうに考へてゐるのである。
藤村は世間的処世に於ては糞マジメな人であつたが、文学的には不誠実な人であつた。したがつて彼の誠実謹厳な生活自体が不健全、不道徳、贋物であつたと私は思ふ。
彼は世間を怖れてゐたが、文学を甘くみくびつてゐた。そして彼は処世的なマ
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