註釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考の在り方で、近頃は女房の眉を落させたりオハグロをぬらせることは無くなつたが、刺青と大して異ならないかゝる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑るよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見出し、疑る者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であつた。女房のオハグロは無くなつたが、オハグロ的マジナヒは女房の全身、全心、魂の奥底にまで絡みついて生きてをり、それが先づ日本の幽霊の親分で、平野謙のやうに私などよりも考へる時間が余程多いらしい人ですら、人間の姿を諸々の幽霊から本当に絶縁しようといふ大事な根本的な態度を忘れ、多くは枝葉に就て考へる時間が多いのではないかと思ふ。彼は人の小説を厭になるほどたくさん読むが、僕が三行読んで投げ出すものを彼は三千万語の終りまで無理に読み、無理に幽霊をでつちあげ、そして自分の本当の心と真に争ふ、自分の幽霊と命を賭しても争ふといふ大事なたつた一つのことが忘れられてゐるのだ。
 日本的家庭感情の奇怪な歪みは浮世に於ては人情義理といふ怪物となり、離俗の世界に於てはサビだの幽玄だのモノノアハレなどといふ神秘の扉の奥に隠れて曰く言ひ難きものとなる。ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴つたか左が鳴つたかなどと云つて、人生の大真理がそんな所に転がつてゐると思ひ、大将軍大政治家大富豪ともならん者はさういふ悟りをひらかなければならないなどと、かういふフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用してゐるのである。西洋流の学問をして実証精神の型が分るとかういふ一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ焼刃で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年と共に反動的な大幽霊と自ら化して、サビだの幽玄だの益々執念を深めてしまふ。学問の型を形の如くに勉強するが、自分自身といふものに就て真実突きとめて生きなければならないといふ唯一のものが欠けてゐるのだ。
 毎々平野謙を引合ひにして恐縮だが、先頃彼の労作二百余枚の「島崎藤村の『新生』に就て」を読んだからで、他の批評家先生は駄文ばかりで、いかさま私が馬鹿げたヒマ人でも駄文を相手にするわけには行かない。
「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思ひ入れよろしくわが身の罪の深さを思ふところが人生の深処にふれてゐるとか、鬼
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