私は例のジロリ型の反撥に敵意をいだく女を、食い下り追いつめて我がものとすることだけに情熱を托しうるのであった。それは金龍が私の一生に残してくれたミヤゲであった。
 金龍と私との十年の歳月は多事多難であったが、又、夢のようにも、すぎ去った。私は多情多恨であり、思い屈し、千々に乱れて、その十年をすごしはしたが、なにか切実ではなかったような思いがする。
 四十にして惑わず、という、孔子は不惑をどの意味で用いたのか知らないけれども、私にとっても、四十はまさしく不惑で、私は不惑の幽霊になやまされているのである。
 私の不惑という奴は、人生の物質的発見というような、ちょッと巧《うま》く言い現わしができないけれども、感傷とか甘さというものゝ喪失から来たこの現実の重量感の負担であった。
 私自身が昔から人をジロリと見る癖があったというが、そういうジロリの意識の苦しさが、つまり今では私のノベツの時間のような、現実というものにたゞ物的に即している苦しさ冷めたさで、心というものが、物でしかないようで、それが手ざわりであるような自覚についての切なさであった。
 それはまさしく不惑なのである。惑うべからざる切実
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