で、この人の就職は金銭上のことよりも、家庭の逃避、新生活の発見、人生探求というような意味の方が勝っている。
 掘り出し物だと思ったから、即日なにがしかポケットマネーをつゝんで、入社のお祝いまでに、と差上げると、このときヤス子は例のジロリ、一べつをくれたのである。
 これは社に定まったお手当でしょうか、と私をハッキリ見つめて言うから、いゝえ、私が差上げるお祝の寸志ですと申上げると、それでしたら辞退させていたゞきたいと存じますが、たっていたゞかねばならないものでございますか、と益々ハッキリと見つめて言う。その目が、妙に深く、うるんで、その奥には、私には距てられた何かゞあり、さえぎられているような気がする。私は笑って、
「いゝえ、そんな大問題のものじゃアありませんよ。もとより、それはです。何かの底意がなければ、なにがしの金円を人に差上げるものではありませんな。然しです。あなたが下さいとも仰有《おっしゃ》らないのに人が勝手にくれるものは、あなたがそれを受取っても、あなたは何を支払う必要もない。私はつまり、あなたのような立派なお方に長く社にいて欲しいという考えで、この寸志を差上げるわけですが、こ
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