は入れ歯を返してよこす筈はない。
 ヤス子の笑顔のあたゝかさは、衣子の醜怪な憎しみに対して私へ寄せるいたわりのシルシであろうか。私はヤス子に、こんなにあたゝかく遇せられたことはなかった。怒りも羞らいも、私は忘れることができた。
「すると、あなたが、ハンケチに包んで下さったのですね。なんて、幸福なんだろう」
 私はハンケチを押しいたゞいた。すると、胸がつまり、にわかに涙があふれでゝくるのである。私は押しいたゞいたまゝハンケチを目に押し当てゝごまかしたが、涙はいつまでもとまらず、顔を膝に当てゝ起すことができなかった。

          ★

 私が美代子を誘拐したのは、それから二ヶ月ほど後のことであった。
 私はヤス子の名を用いて美代子をよびだし、会員組織のホールへ案内して、今にヤス子がくる筈だからと、飲んで踊って酔わせておいて、じゃア、こゝのあとで、御飯をたべる約束だから、そっちで待っているのだろうと、さらに飲み屋へ案内して泥酔させ、前後不覚の美代子を待合へつれこんで、衣子と寝たその部屋で、私はかねての思いをとげた。
 私という奴がどんなバカだか、すでに皆さん御承知の筈だ。
 私は結果の怖しさを知りながら、本能的な何かに惹かれて、すでに事をやり終っているのである。
 私はヤス子に恋いこがれ、あこがれ、祈り、狂っているのである。そのヤス子の名をかたり、ヤス子の慈しむ少女をさらって暴行する、ヤス子は怒り、蔑み、私を捨てゝ去るであろう。
 私はヤス子に捨てられる日の不安のために、日夜を問わず悩み狂っているのである。その不安と怖れにくらべれば、美代子などは何物でもない。魅力もさしたるものではなく、衣子への復讐の誓いと云っても、それも、今は、すでにさしたるものではなかった。
 そのくせ、思いたつ。熱心に計画する。私は緊張し、図太くなり、そして、私の目の鉛色に光りだすのが自分にも分るように思われる。メンミツに、ジンソクに、着々と、私はすでに実行しているのであった。
 オロカである。オロカ。オロカ。ああ! オロカ。オロカモノよ。
 すでに、すべては、破滅したと思った。
 どうして再びヤス子の顔を見る勇気があろう。
 私は美代子と、せめて最後の悲しい旅にでようと思った。
 美代子は、まるで、白痴であった。怒り、呪い、蔑んでも、私に従わざるを得ないのである。再三の罪の怖れのために、
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