本先生にお取次する、そのとき、岩本先生が、例の猪の如き早のみこみをもって、得たりとばかり、あなたをさらってお嫁にしてしまう。悲鳴をあげても、あの猪の先生にかゝっては、もう、手おくれですよ」
と、眼にやさしい笑みをこめて睨んであげる。美代子はクスリと笑って、返事をしない。
こうして見直すと、成熟しかけたジロリの娘、親の顔にやゝふくらみを持たせ、目は細からずパッチリしているが、やっぱり全体どことなく薄く、白々と、父親の酷薄な気性をうけ、父の性もうけ、情火と強情と冷めたさをつゝんで、すくすくと延びた肢体、見あきないものがある。
そこで私は、この小動物も、万苦をしのび、いつの日かモノにする折がなければ、生れいでた主意がたゝぬと、堅く天地神明に誓いをたてた。
私は然し、肉慾自体に目的をおくものではなかった。金龍の手練は美事であったし、謎のゆたかな肉体というものならば、私程度の遊び人は、誰しも一生に五人や六人その心当りはあり、然し、そのようなものによっては、我々のグウタラな魂すらも充たされぬものであることを知っている筈のものだ。
私はすでに三十のころから、単なる肉慾の快楽には絶望していた。
恥をお話しなければならぬが、私が金龍にコキ使われ、辱しめに堪え、死ぬ以上の恥を忍んで平伏してふし拝んだり、それというのも、肉体のミレンよりも、そうすることが愉しかったからである。
私というものは、金龍にとっては歯牙にもかけておらぬ奴隷にすぎず、踏んだり蹴ったり、ポイとつまんでゴミのように捨てゝ、金龍は一秒間の感傷に苦しむこともないのである。男女関係に於て、その馬鹿阿呆になりきること、なれるということ、それが金龍を知ることによって、神に授けていただいた恩寵であり宿命であった。
三人のジロリの女を射とめなければならないこと、そしてそれが特にジロリの女でなければならぬこと、これ又、私の宿命である。
こう言いきると、いかにも私がムリに言いきろうとしているように思われるかも知れないが、ムリなところは更にない。あべこべに、私の生きる目的が、もはや、これだけのものだ、とハッキリ分ってしまったことが、切ないのである。自分の人生とか、自分の心というものに、自分の知らない奥があり、まだ何かゞある。そう感じられる人生は救いがあるというものだ。
私のように、自分がこれだけのものだと分ってしまって
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