で、この人の就職は金銭上のことよりも、家庭の逃避、新生活の発見、人生探求というような意味の方が勝っている。
掘り出し物だと思ったから、即日なにがしかポケットマネーをつゝんで、入社のお祝いまでに、と差上げると、このときヤス子は例のジロリ、一べつをくれたのである。
これは社に定まったお手当でしょうか、と私をハッキリ見つめて言うから、いゝえ、私が差上げるお祝の寸志ですと申上げると、それでしたら辞退させていたゞきたいと存じますが、たっていたゞかねばならないものでございますか、と益々ハッキリと見つめて言う。その目が、妙に深く、うるんで、その奥には、私には距てられた何かゞあり、さえぎられているような気がする。私は笑って、
「いゝえ、そんな大問題のものじゃアありませんよ。もとより、それはです。何かの底意がなければ、なにがしの金円を人に差上げるものではありませんな。然しです。あなたが下さいとも仰有《おっしゃ》らないのに人が勝手にくれるものは、あなたがそれを受取っても、あなたは何を支払う必要もない。私はつまり、あなたのような立派なお方に長く社にいて欲しいという考えで、この寸志を差上げるわけですが、これを受取ることによって、あなたに義務の生じることはありませんです。人が勝手にくれる物は、気軽に受取る方がよろしいです。映画を見たり、本を買ったり、靴の一足ぐらいは買えるでしょう。いくらかなりとあなたの人生のお役にたてば、差上げる私の方の満足というものですよ。あなたが妙にカングルと、そのために人生がキュークツになる。万事気軽に受けいれると、万事が気軽に終始する、人生はそんなものです」
ヤス子は分りましたと受取ってくれたが、そこで私が一夕晩メシに招待して、例の紙の横流しなどザックバランに社のヤミ性をうちあけて、
「かく申さばお分りの通り、私はしがないヤミ屋の一人、たゞ金銭を追いまわしている奴隷ですが、金銭万能というわけではありませんよ。金銭によって真実幸福をもとめうるかどうか、これは問題のあるところですが、金銭をこゝろみずにハナから金銭を軽蔑したり金銭に絶望したりすることは私はとりません。まず金銭をこゝろみて、それによって真の幸福の買えないことに絶望して、精神上の幸福をもとめる、これなら順が立っていますよ。万事こうこなくちゃ、空論だけの人生観は私は信用しないタテマエなんです」
ヤス子は
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