ふの家で呼んでゐると、出かけて行つて、無理して相手になつてやる。尤も彼自身宿酔とか夜逃げ以上の悩みはなくて自分にないことは敢て想像に及んでまで同情してやる余地はない。これは誰しもさういふもので、だから庄吉が話の途中に急にイライラとシゴキを握つてピンポン台の足にからみつけて、輪をつくり、輪に首を突ッこんでグイグイひいて、これぢやア死ねねえかな、イライラとシゴキを握つて又首をつッこみギュウギュウ腕でひつぱりあげる。まるでもう気違ひの目で、濁つて青くて、暗くギラギラしてゐる。それでも、まさかに自殺といふやうなことを、想像してみなかつた。
それから四五日後のことだ。
庄吉が家の中からオーイ、オーイとよんだが返事がない。そこで庄吉が下駄を突ッかけて、戸波の家の戸の外へきて、
「居ねえの? 戸波」
戸波の妻君は女給あがり、至つて不作法で亭主を尻にしいてフテ寝好きの女で、部屋の中からブツブツ怒り声で、
「居ないわよ」
「どこへ行つた?」
「そんなこと、知らないわよ」
庄吉はそれきり黙つて戻つて行つた。戸波がこのとき家にゐれば、元より何ごともなかつたのである。
庄吉は縁側へきて、坐つてゐたが、イライラ立つて部屋の方へ、座敷からピンポン台のある部屋奥の部屋それを無意味に足早に歩いて又縁側へ戻つてきて、イライラ坐つた。ちよッと坐つてゐたかと思ふと、又ぷいと立ち上つて子供部屋へはいつた。
それから十分、戸波が帰つてきた。今三枝さんが呼びに来たわよときいて、玄関からはいらず庭先から縁側の方へ廻つてきた。戸波はいつも庭先から廻つてくる習慣なのである。
子供部屋は縁側の外れにあつた。この部屋はちやうど屋根裏に似て、天井がなく、梁がむきだしてあり、その梁が六尺ぐらゐの高さでしかない。つまり物置のやうなものをつけたして、縁側をひろげたわけ、板の間で、椅子テーブルが置いてある。洋間のやうになつてゐるが、扉がないから、庭先から中の気配が分るのだ。
何か人の気配がする。それで戸波が庭先からのぞきこんでみると、庄吉の母、訓導あがりのデップリ体格のよい堂々たるお婆さんだが、何かを両手でジッと抑へてゐる。後向きで何を抑へてゐるのだか分らないが、何か動くものを動かないやうに、ジッと抑へてゐる感じである。それで戸波が縁側へあがつて、
「御隠居さん、何ですか」
声をかけてはいつて行くと、ふりむいて、光る目で、ギラリと睨んだ。
「馬鹿が死にました」
それから抑へてゐたものゝ手をはなして、出てきて、
「医者をよんできて下さい」
と言つた。
戸波が中を見ると、梁にシゴキをかけて、庄吉がぶらさがつてゐた。高さが六尺ぐらゐしかない梁だから、小男の庄吉はちやうど爪先で立つてゐるやうに、ほとんど足が床板とスレスレのところで、かすかにゆれてゐた。洟《はな》が二本、長く垂れて目を赤くむいて生きて狂つてゐるやうにギラギラしてゐるのが見えたのである。庄吉の母は、たぶん子供部屋に異様な物音をきゝつけて、すぐ立上つてはいつて行つたものだらう。戸波は庄吉を梁から下して、医者へ走つて行つた。
★
私は電報がきて小田原へ行つたが、私がついてまもなく、その日の新聞で良人の自殺を知つた女房が帰つてきた。彼女は私にちよつと来て下さいと別室へつれて行き、箪笥《たんす》からとりだしたのか、喪服に着かへながら、
「あいつ、私を苦しめるために自殺したのよ」
「そんなことはないさ。人を苦しめるために人間も色んなことをするだらうけど、自殺はしないね。ヒステリーの娘ぢやあるまいし、四十歳の文士だから」
「うそよ。あいつ、私を苦しめるためなら、なんだつてするわ。いやがらせの自殺よ」
「まア、気をしづめなさい」
私はふりむいて部屋を去つた。私には彼女が喪服を持つてゐたのが不思議であつた。どうして喪服だけ質屋に入れてゐなかつたのか、着る物の何から何まで流してしまつた生活の中で。
私がそんなことを考へたのも、女の喪服といふものが奇妙に色ッポイからで、特別それを着つゝある最中は甚だもつて悩ましい。さういふ奇怪になまめかしく色つぽいのがポロポロ口惜し涙を流して、あいつ、私を苦しめるために自殺しやがつた、といふ、私もこれには色ッポサの方に当てられたから、さつさと逃げだしてしまつた。まことにお恥しい次第である。
私はその後いくばくもなく京都へ放浪の旅にでた。一年半、それから東京へ帰つた一夜、庄吉夫人の訪問を受けた。彼女はすさみきつてゐた。彼女はオメカケになつてゐた。オメカケといふよりも売娼婦、それも最もすさみはてた夜鷹、さういふ感じで、私は正視に堪へなかつたのである。その後、実際に、さういふ生活におちたといふやうな噂をきいた。
庄吉は夢をつくつてゐた人だ。彼の文学が彼の夢であるばかりでなく、彼の実人生が又、彼の夢であつた。
然し、夢が文学でありうるためには、その夢の根柢が実人生に根をはり、彼の立つ現実の地盤に根を下してゐなければならない。始めは下してゐたのである。だから彼の女房は夢の中に描かれた彼女を模倣し、やがて分ちがたく似せ合せ、彼等の現実自体を夢とすることができたのだ。
彼の人生も文学も、彼のこしらへたオモチャ箱のやうなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与へた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存してゐたのである。
私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひつくりかへり、こはれてしまつたのだと思つてゐる。彼の小説は彼の立つ現実の地盤から遊離して、架空の空間へ根を下すやうになり、彼の女房も、オモチャ箱の中の女房がもう自分ではないことを見破るやうになつてゐたのだ。
庄吉だつて知つてゐた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与へた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだらうし、メカケにもならう、淫売婦にもなるであらう、といふことを。
彼の鬼の目はそれぐらゐのことはチャンと見ぬいてゐた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、たゞ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらはれ、彼が死んでしまへば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果てゝしまつてゐたのだ。
庄吉よ、現にあなたの女房はさうなつてゐるのだ。
私はあなたを辱しめるのでもなく、あなたの女房を辱しめるのでもない。人間万事がさうしたものなのだ。
あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下して、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ち、オモチャ箱はつくれるものだ。
私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなつたんぢやないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんといふことだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。
私は、あなたの実に下らぬ死を思ひ、やるせなくて、たまらなかつたのだ。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
初出:「光 第三巻第七号」
1947(昭和22)年7月1日発行
※底本の解題によれば、本作品のテキストは「著者の直筆原稿」をもとにしています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年3月22日作成
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