た皺と毛髪だけであつた。
「あゝ、よく来てくれたな。会ひたかつたな。会へてよかつた。あれから君はどんなに暮してゐた。君の部屋は静かなのか。勉強はできたか。ああ、今日はオレは幸せだ。やうやく君に会へたのか」
 按吉は又呆気にとられた。酒に酔つた場合の外は、陰鬱無言、極度に慎しみ深くハニカミ屋で、およそ感情を露出することのない庄吉であつたから。
 庄吉は頻りに泊ることをすゝめたけれども按吉は〆切ちかい仕事があるからと言つて強ひてことはつた。それといふのが、病みやつれた庄吉と話してゐるのが苦痛で堪へられなかつたからで、一向にはやらない三文々士の栗栖按吉に〆切に追はれる仕事もないものだが、それをきくと庄吉は全然すまながつて、さうだつたか、無理にきてくれたのか、かんべんしてくれ、小さくちゞんだ顔はそれだけでもう元々涙をためてゐるやうに見えるのであつた。
 それでも按吉は色々と言葉をつくして、たとへ女房が浮田と失踪しても必ずしも肉体の関係があるとは限らない。元々痴情の家出ならともかく、亭主と喧嘩して飛びだす、さういふ場合は別で、自分はさる娘と十日あまりも恋愛旅行をしたことがあるが娘は身をまかせなか
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