ら、世間一般の人々以上に即物的な現実性を持つてゐた。彼は浪費家であるけれども、根は吝嗇で、つまりキンケン力行《りつこう》の世人よりもお金を惜しみ物を惜しむ人間の執念を恵まれてゐるのだが、守銭奴の執念をもちながら浪費家だ。近代文士が即物的な現実家だといふのは、人間通であるから、人間に通じてゐるとは自分に通じることでもあり、人間の執念妄執を「知る」といふことは、つまり自分が「もつ」といふことだ。だから人間といふものが複雑なもので執着ミレンなものであるなら、近代文士はみんな複雑であり執着ミレンなもので、同時に然し彼は浪費家であり夢遊歩行家の如く夢幻の人生を営んでゐた。
だいたい我々貧乏な文士ぐらゐ、たまに懐にお金をもつと慌てゝお金を払ひたがるものはない。文士が三人も集つてお酒をのんで、それぞれ懐にお金があるときには、お勘定、となると最も貧乏なのがムキになつて真ッ先に払ひたがる。私などがしよつちゆうさうで、マアマア今日はどうあつてもオレにたのむ、などと凄い意気込みで、そのくせツケがきて懐中を調べてみるとお金が足りない。ウロウロ悄然としてまだどこかにお金でもあるが如くに懐をかきまはす時に至つて、かねてお金持の文士の方がチッとも騒がずオモムロに懐中からズッシリふくらんだ財布をとりだすといふことになる。三枝庄吉も亦、真ッ先に慌てふためいて蟇口《がまぐち》をとりだす組で、然しこの組の連中ほど貧のつらさ、お金の有難さを骨身にしみて知る者はない。そのくせこの連中の蟇口の中のお金にはみんなそれぞれ脚が生えて我先にとびだし駈け去るシクミだから、まことに天下はまゝならぬ。朝の来たるごとに後悔に及び、米もなければ大根のシッポもない、今日は何をたべるの、と女房に言はれて、汝女房こそ咒ひの悪魔である如くギラギラ光る目でジロリと見て、フトンをかぶつたり、腕組みをしてソッポを向いたりしてゐる。
庄吉は転々と引越した。長くて半年、時には三月、酒屋、米屋、家賃に窮するからで、彼はシルシ半纏《ばんてん》がいちばん怖しいのは、東京の四方八方に転々彼を走らせるいくらでもない借金が、そこのオヤジも小僧もたいがいシルシ半纏をきてゐるからだ。おまけに自転車にのつてゐる。風をきつて彼めがけて躍りかゝる如く見えるから自転車のシルシ半纏が恐怖のたねで、そこで彼は自動車にのつて目的地へ走る、運転手に睨まれ、もじもじ恥にふ
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