づけが欠け、一人よがりいゝ気にオモチャ箱をひつくりかへしオモチャの人格をのさばらせるから、むしろそこからヒビがはいつた。宿六の愛読者ではなくなつたから、作中人物を疑り蔑むことによつて、現実の宿六をも蔑み、その犯しがたい品位まで嘘つパチいゝ加減のまやかし物だといふやうに見る目が曲つてしまつたのである。
庄吉はもう四十になつた。彼は女房を信じ愛しまかせきつてゐた。気の毒な彼はその作品の根柢が現実の根から遊離し冷厳なる鬼の目を封じ去り締めだすことに馴れるにつれて、彼は然しあべこべに彼の現実の表面だけを彼の夢幻の作品に似せて行き、夢と現実が分かち難くなつてきた。
彼は雑誌社で稿料を貰ふ。借金とりにせめられ、子供の月謝や弁当代に事欠き、女房は彼の帰宅を待ちわびてゐる。その借金や子供の学費が気にかゝることに於て彼は決して女房以下ではないのだけれども、友だちに会ふ、懐中の原稿料は無事女房に渡してやりたいけれども、先刻も話した通りこのお金には脚があつて慌てゝ走つて行きたがつてゐるのだから、せつない。まア一杯だけと思ふ、よく酔へる、二杯、三杯、十杯、さア、景気よく騒がう、あれも呼べ、これも呼べ、八方に電話をかける、後輩どもをよびあつめ、大威張り、陸上競技の投げ槍などを買ひもとめてバルヂンといふ彼の作中人物の愛吟を高らかに誦しつゝアテナイの市民、アテナイの選手を気どつて我が家に帰る。もはや一文の金も懐中にはない。女房はくるりとふりむき別室へ駈け去つて泣く、泣きながら翌朝のオミオツケのタマネギをきり又なく。宿六がこれ女房よと呼びかけても返事をしない。
この悲痛をもとより彼は見逃がしてゐない。彼はむしろ女房よりも貧苦がせつなく、借金が悲しく、子供の学費が心にかゝつてゐるのだ。けれども彼の作品が根柢的にその現実と絶縁に成功すると同様に、彼の現実に於ても、その絶縁に成功しなければ彼はもう身の置き場もない。彼は借金とりをラ・マンチャの紳士の水車の化け物に見たてゝ戦ひ、女房の妹を口説いてもトボソのダルシニヤ姫になぞらへる。孤高の文学だの、遊吟詩人の異色文学だの、彼の作品の広告のきまり文句を全然信じてゐないくせに、俺はさういふものだと胸をそらして思ひこむことに成功する。
根柢に現実の根とまつたく遊離した作品世界に遊びながら、その偽懣に気づかぬどころか、現実のうはべだけを作中世界に似せ合はせる
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