人ではないから、公人としても失格しているものだと考えている。党の政策に対しても、自主的に判断して行動すべきもの、その自由のない政党は落第で、したがって、日本の政党は、共産党は第一に、然し、すべてが落第だと思っている。日本の政党政治家は、自由人ではないのである。
 政治家の資格審査は、いかなる政策に賛成したか、反対したか、によって定まるべきものだろう。そして、その結果によって、批判さるべきものであろう。政治家といえども、政党人よりも、自由人を基本とすべきであり、まして、一般人は、政党などというものに所属するのは、愚の骨頂だというのが私の考えである。
 政治家が、政党ではなしに、政策を対象にして、一々行動を明確にするようになれば、国民の生活が自然に安定して行くに相違ない。現在の保守政党は、まだしも、かゝる自由人的性格に変貌して行く見込みがあるのであるが、共産党はコチコチの党閥であり、党人が自由人でありうる見込みすらもないのであるから、この政党に進歩性を望むことは本来まちがっているのである。
 共産党が今日文化人の一部を吸収しつゝあるのは、清貧、というようなセンチメンタリズムが主要なものゝように思われる。私は、本来、清貧というものは好きではない。徹頭徹尾、貧に対する敵対工作をもって、人生の主流と信じているものである。シベリヤの寒冷地にも、花さかしめ、ミノリ豊かならしめることを念願としたい主義なのだ。
 私は、老練なる文化人たる人々に、新世界人デーヴィス青年ほどの着想がないのが不思議なのである。つまり、不勉強であり、今まで、てんでラチもないムダな文化研究にいそしんでいたのだろうと疑わずにいられないのである。
 センチメンタリズムは、よそうじゃないか。純情好きというものは、とてつもなく人間の世界を歪めてしまうものである。そして、常に、現実的であり、実質的なものになろうじゃないか。
 自由万歳。私が叫びたいのは、それだけだ。



底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二七巻第三号」
   1949(昭和24)年3月1日発行
初出:「文藝春秋 第二七巻第三号」
   1949(昭和24)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
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