り、ゼロであった。
 だいたい自我というものを考えつめて行けば、自我、それから男女関係、子供、それを構成する共同の社会、ひいては世界全体の在り方、問題ははじめからそこまで展開しているに極ったもので、自我について思弁がひらかれると同時に、そうであり、十年、二十年の思弁をたどって、そこに行きつくというものではない。はじめから、そうに極っており、問題は、そこから先にあるのである。
 敗戦、そして、この社会的混乱、そこで、ようやく、これではいかぬ、政治に目覚めた、などゝは、バカも休み休み云うがよろしく、自我について思弁のひらかれた十何歳の年齢から、自我と社会、自我の在り方と同時に、社会の在り方というものは、表裏一体、離るべからざるものでなければ、すべての思弁がナンセンスであったにすぎないのである。
 保守思想と進歩思想というけれども、日本の政党に進歩的な思想があるかどうかは疑問である。例を進歩的の代表選手と目される共産党にとって考えてごらんなさい。反アメリカ的対立感のせいもあるでしょうが、日本共産党は民族独立ということを云う。この狭小な国土に八千万を越す日本人が民族独立して、いかなる果実がもたらされるというのであろうか。共産主義の理論などは問題とするに足らない。この狭小にして、天然資源も豊かではない国土と、八千万を越す頭の数を見るだけで、明白なのである。かりに全世界の各民族が独立して各自共産主義国家となったと仮定して、その際、最低の生活を営む民族は先ず日本であろう。
 国土と人口を調節する最も素朴な方法は侵略という腕力作業であるが、これは必ず失敗する性質のものである。人が人を屈従せしめるという方法が一時的に成功しても、永遠にそうでありうる筈はなく、云うまでもなく、世界が単一国家となるまでは、ゴタゴタの絶え間がないにきまっている。
 デーヴィス青年の新世界国人運動は、日本人にはモッケの幸い、というところであるが、どっこい、国籍だけ新世界国人になったところで、現実が伴わなければ、どうなるものでもない。
 共産主義政府が樹立され、搾取階級がなくなっても、戦争に焼きはらわれた資源乏しいこの狭小な国土から、安定した豊かな生活がでてくる筈はないのである。
 原理は極めて簡単だ。豊かな国のオコボレに縋る方が、現実を救う最短距離なのである。これを乞食根性と云う人は、武士道という最もあやまれ
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