でありますから、智力というものに頼ってはいても、実際の自分の力なるものがどのくらいあるのか、分っておる人間はいないのであります。ですから、カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動の前には、禅僧は非常に脅威を感じるのであります。自分の実力のなさ、みすぼらしさを感じるわけであります。そうして、禅宗を信じる者が、僧侶でありながらカトリック教へ転向するということが、大いに流行したのであります。それは、今日、われわれが想像いたしますよりも、遥かに多数なのであります。これは今日から見ますと驚くべきことではありますけれども、事実なのでありまして、それは記録に残っておるのであります。
このフカダジとの問答などがありましてから、ザヴィエルは鹿児島を去って山口へ行きました。
山口で布教をいたしましてから、さらにザヴィエルは京都へ行ったのでありますけれども、その当時の京都は、戦争のまっ最中でありまして、一体ニッポンという国の主権がどこにあるのだか、それが分らないという目茶苦茶な状態にあったのであります。これにはザヴィエルもまごついたのであります。併し、宣教師
前へ
次へ
全36ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング