坊を一緒に連れて参りましたので、その黒ん坊を大変珍らしがってニッポン人が押しかけました。
サツマの殿様の島津さんに謁見いたしまして、布教の許可を受けることができました。この時にザヴィエルが、鹿児島のフクソウ寺のニンジという高僧と友だちになりました。このフクソウ寺というのは、鹿児島の島津家の菩提寺だそうで、当時百人ほどの禅僧がおったと申しますから、非常に大きなお寺、サツマで最大のお寺であり、そこのニンジという禅僧は、サツマきっての傑僧であったのだと思います。
ザヴィエルは、このお寺を借りまして、キリスト教の説教を始めました。
フランシスコ・ザヴィエルは、フクソウ寺の傑僧ニンジと、毎日のように顔を合せていますし、いろいろなことで友達になったのでありますが、ニンジとは種々の話題をつかまえて話をしておりまして、それが記録みたいなものに残っております。
ザヴィエルが或る日、フクソウ寺へやって行きますと、百人ばかりの坊主が坐禅をやっておるところでした。これは変った風景に見えたことでありましょう。
ザヴィエルは、
「あれは、一体、何を為ているのですか?」
と聞いたのであります。
ニンジは、
「あゝ、あれですか、あれは瞑想しているのです。目下、苦行をしているのですよ」
と答えたのであります。
これがザヴィエルには、なかなか合点が行かない。
「瞑想と云ったって、あんなふうなことをしていて、そもそも、何を考えているんですか?」
と聞かざるを得なかったのであります。
この問いを耳にすると、ニンジはにっこりと笑いまして、
「いや、あの連中のことですから、どうせ碌なことは考えているわけがありません。おおかた、明日の御布施がどのくらい集まるだろうとか、出かけて行った先きの檀家で、どんな料理が出るだろうとか、そんなことをでも考えているんでしょう。大したことは考えていませんよ」
というような返事を与えたのであります。
この答えはまことに象徴的なものでありまして、禅宗の坊主としては、なるほど云いそうなことであります。尤もな話なのであります。ニンジというこの坊さんが、当時のいわゆる傑僧であり、また事実上でも高僧と云われているような人物でありますだけに、このような言葉には意味があるのであります。大体が、禅というものは人間の持っている人間性、その全べてのものを、そのままに肯定する
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