だ。
 いったい、幸田露伴とは、国民的文豪なりや。いったい、露伴の何という小説が日本人の歴史の中に血液の中に、生きているのか。
 少数の人々が「五重塔」ぐらいを読んでるかも知れないが、「五重塔」が歴史的な傑作の名に価いするか、ともかく、一般大衆の民族的な血液に露伴の文学が愛読されているとは思われず、むしろ一葉の「たけくらべ」が、はるかに国民に親しまれているであろう。
 一般大衆の流行の如き、とるに足らぬ、と仰有《おっしゃ》るならば、笑うべき暴論と申さねばならぬ。死んで、歴史に残る、という。文学が歴史に残るとはいつの世にも愛読されるということで、これにまさる文学批評はないのである。一部に専門的に、どれだけヒネクッた批評があるにしても、いつの世にも愛読されるということより大いなる、又、真実の批評がある筈はない。
 たとえば、坂口安吾という三文ダラク論者が、汗水たらして、夏目漱石は低俗軽薄文学也とヤッツケてみても、その坊ちゃんとか猫とかは、すでに国民の血液の一部と化しつつあるではないか。これに比べれば、三文ダラク論者のヒネクレル説の如きは問題にあらず、と申すより仕方がない。
 露伴の作に、坊
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