、人情化されて語り伝えられているのである。
 講談は今もなお語られ、そして語られるということは、大衆に支持されているということだ。支持するとは、その講談の場に於て尚大衆が生活しつゝあるということである。
 ヤクザの世界は今も講談そのまゝであるが、一般大衆にも、やっぱり講談の場と通ずる底辺があるはずだ。
 その歴然たるショウコには裁判がある。同じ人殺しでも、ヤクザの人殺しは、特別の観点、つまり講談の場から解釈せられて、特異なものに扱われ、多少は罪が軽いようだ。つまり裁判においてすら講談の場が、一応その正常性を認められているのである。講談の場は決して正常ではないはずである。
 今日の犯罪増加の一因には、我々の日常生活に残存する講談性にも原因があろうと思う。

     男女同権

 さる小学校に宴会があった。女の先生方がオサンドン代りに食卓の用意をさせられ、あまつさえ酔っ払った男の先生から侮辱的言辞をあびせられた。気を悪くした一人の女先生が山川菊枝部長にこの話をつたえたから、部長は男性の横暴増長に胸をいためられて、男女同権|未《いまだ》しと怒りの一文を草せられた。くだんの小学校に於ては、酒
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