来、信徒になる者がなくなった。
 然し、道化的なるものを道化的に見出すためには、教養がいる。また、道化の反面にある正理を愛する信念と情熱もいる。
 道化日本の第一の欠点は、教養が足りない、ということだろう。論語めかしくいうなら、自分のウチへ盗人にはいる奴が悪いのではなくて、そういうことは落語の中の熊公だけしかやらないものだと認定することの出来ない、余裕とユーモアのない時代の心が悪いのである。

     帝銀事件余談

 帝銀事件犯人の似顔絵の発表は無理だろう。昔さる新聞社の入社試験に、講師が一席弁じ、ひきさがってのち、講師の人相服装を問うたら、正解がなかったそうだ。
 何十人に素顔をさらしたところで、何十人の印象を合計して正解のでる性質のものではなく、似て非なる架空の何者かを現実的にデッチ上げて、それに限定を加えるだけ、事態をアイマイにしているようなものだ。レッキとした犯人の写真があって、それを辻々の高札にするのとは根柢的に性質が違っているのである。
 警察が民主的になったので、昔のように容疑者を一々ブタ箱へ入れて取調べる便利がなくなったので、捜査がおくれて困るという。すると、輿論《よろん》の多くが、そうだ、そうだ、遠慮なく昔にかえれと言いかねない有様だから、ものすごい。
 帝銀事件の犯人が早くつかまるということよりも、人権を尊重するということの方が、どれだけ大切なことか分らない。この二者は比較を絶しているものなのである。帝銀事件の犯人のタイホがおくれてもよいから、人権を尊重するという国風は断じてこれを守り、確立しなければならない。
 かりそめにも警察当局たるものが、人権尊重のためにタイホがおくれるなどと口実をつくるのは奇怪であり、かゝる暴論に対して非難の輿論が起らぬという日本の現実は悲しむべき貧しさである。
 密告歓迎などというのも、またひどい。脱税の密告、イントク物資の密告、政府は密告の国風を熱情こめて作りつゝあるもののようだが、脱税やイントク物資よりも密告の国風の方が、どれだけ祖国を害《そこな》い、祖国の卑劣化をもたらすか分らない。
 密告歓迎だの似顔絵の高札などは江戸時代の岡ッ引の智慧でやったことで、近代に於ては警察の基礎も文化の在り方の一つでなければならぬもの。一人の犯人をつかまえるよりも、人民保護という原則の確立の方が大切であろう。
 昨年のことだが、
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