わが戦争に対処せる工夫の数々
坂口安吾
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(例)本所《ほんじよ》
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(例)浅草|本所《ほんじよ》
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私はこれより一人の男がこの戦争に対処した数々の秘策と工夫の人生に就てお話したい。戦争を見物したいといふ人間なら星の数ほどあるであらうが、兵隊になつて自分自身が戦争するといふことになると、これは誰でも尻ごみする。ところが日本には「兵隊になる」といふ言葉は常識上は存在せず「兵隊にとられる」と称する通り、こつちが厭だと云つても兵隊にさせられるから仕方がない。こればかりは秘策の施し様もないのである。三月十日の浅草|本所《ほんじよ》深川などのやられたやうなことが戦争の始めにあれば、しめた、といふので、死んだふりをしたり、無籍者になつたり、年齢をごまかしたり、余は丁種でござる、といふやうなことを申立てゝ、なんと云つたつて区役所から何から何まで焼けたり死んだりしてゐるのだからビク/\することはない。しかしもうあの期に及んでは手遅れで、大概の若い者が兵隊にとられてしまつた後である。けれども、かういふチャンスは人生の正規のコースには有り得ぬので、さういふ場合を待ちもうけて秘策や工夫をたてるわけにはゆかない。だから「兵隊にとられゝば」もう仕方がない。これは工夫の埒外《らちがい》で、諦めざるを得ないのである。
だから戦争と私との関係、第一条は、兵隊にとられゝば仕方なし、といふ絶体絶命の憲章から始まるのである。太平洋戦争の始まつたとき、私は数へ年三十六だ。第二乙だから平時でもまだ兵役の義務はあるので、それに私の地方の兵隊は辛抱づよくて日本でも優秀な部隊だといふ話であるから、私も、もう、兵隊にとられることは免れがたい宿命だと観念せざるを得なかつた。
そこで私の工夫の第一条は、兵隊になつてなるべく死なゝい工夫、といふので、然し、最初に申上げておかねばならぬことは、終戦後みんな急に友好的に太平楽になつて、人道だの敵を愛せなどと云ふけれども、何と云つても戦争本来の性格は殺したり殺されたりすることなので、敵と味方が突貫! といつてぶつかつて、そこでヤアといつて握手したなどゝいふことは決してない。私が如何やうに胸のうちに敵を愛してゐたところで、向ふのトーチカの先様に通じる由はないのだから、どつちの方角から迫撃砲だの機銃だの重砲だの乃至は飛行機の爆弾だの、何が来て、いつ成仏するか分らない。だから、絶対に死なゝい工夫といふのは有り得ないので、なるべく死なゝい工夫。
機械力、これはマア仕方がない。これを差引くと、戦争はやゝスポーツに似てくる。急場々々に敏活な運動性、肉体の反応によつて、逃げたり、穴ボコへ飛びこんだり、これによつていくらか命をもたせることができる。私がかう考へたのは、私は元来スポーツマンで運動神経が発達してゐるから、肉体の敏活なる反応が訓練によつて非常に大きな差を表すことを熟知してゐるからであつた。才能もあるが、又、訓練だ。尤もオリムピック棒高飛の大江選手がフィリッピンの上陸で人のあんまり死なゝいうちから真ッ先に死んでゐるので、だから「絶対に死なゝい」工夫は有り得ない。
昭和十七年、十八年、この二年間、私は六月末から十月始めまで、三ヶ月半も郷里の新潟市へ行つた。私は殆ど帰郷したことがないのだが、なぜこの年に帰郷したかといふと、名目は長篇小説を書きあげるため、といふのだ。南の海に面した東京よりは北の海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏新潟で長篇を書くなどゝ称すると本当だと思ふ。そこで出版元の大観堂まで印税を前渡しによこしたが、実際は、新潟の夏ときたら、ひどい暑さだ。東京よりも遥に暑い。気温は低くても感じる暑さがひどいので、湿度が高いのかも知れぬ、それに風がない、特に夜は風が落ちるので、夜と昼の暑さが同じで、夜明けの二時頃からやうやく眠れる涼しさになるのである。東京では日中も裸なら汗のでる日はめつたにないが、新潟では裸でも汗が流れでゝ、それが夜でもさうなのである。だから、仕事などはできる筈はない。私は元々仕事をする気持はなかつた。などゝいふと、いかにも本屋をだまくらがした悪玉のやうだが、万が一にも気がむいて書くことができれば有り難いといふ空頼みの気持はあつたので、大戦争といふ雲の下では万が一でもあればよろしいものだと御承知願ふことにする。
私は新潟の海で猛訓練をするつもりであつた。私は子供の時から日本海へとびこみ、この海で、又、砂浜で、身体をねり運動神経を発達させたので、馬鹿の一つ覚えといふからそれから二十何年もすぎたこの期に及んでも身体の訓練といふことを思ふと古巣へ戻つて鍛へようといふ頭の働きにもなるのだが、又一つは、知らない土地では食糧がない、新潟は穀倉などゝいふ通り、三ヶ月ぐらゐ居候をしても誰も文句を言はぬぐらゐ米があるのだ。
朝、昼、夕、三度づゝ海へ行く。雨が降つても、低気圧襲来大暴風雨狂瀾怒濤といふ時でも、風をひいて熱があつても出掛けて行くので、人ッ子一人ゐない狂瀾怒濤にくる/\まかれたり、ぐい/\引きこまれたり、叩きつけられたり押し倒されたり、あまり気持のいゝものではないが、他日輸送船がひつくり返つてみんな死んでも自分だけ助からうといふ魂胆だから、かうして人ッ子一人ゐない暴風雨下、暗澹たる空の下に、波にくる/\まきつけられて叩きつけられてゐると、いつたい外の日本人は自殺するつもりなのかな、と自分だけひどく頼もしくなつてくるほどだ。いゝ年をして、と笑ふなかれ。四十五十面さげて二等卒で召集される、それが戦争の現実ではないか。
この新潟の海には、昔、村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて(私は姓名に記憶違ひがあるかも知れぬ。先生の碑は寄居浜《よりいはま》の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つてみたいな、と泳げもせぬくせに考へるもので、直線距離で三十二|哩《マイル》といはれてゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消えたのである。私が子供の頃教はつた水泳の先生方はこの臥龍先生の弟子に当られる方々であつた。
私が二十二三の頃であつたが、夏休みで帰省してゐるとき、海軍の水泳教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズムの時代だから先づ新聞社で挨拶する、講演もする、モータアボートをお供につれて出発したが、朝三時といふ出発が四時半頃で、私も夜明けの浜へ見に行つたが、妾だか芸者だか連れてきて、その女に送られて海へはいつて行つた。十六時間で泳ぐつもりだから、ちやうど夕方暗くなるころ着くだらうと何でもないやうに言ひ残したのを私はきいたが、私は此奴《こいつ》はモグリだと思つた。三十二哩を十六時間で泳げる筈がないではないか。一時間に二哩だ。彼はそれを明《あきらか》に見送りの人々に言つた。素人をだますのもいゝ加減にするがいゝ。自由型競泳にクロールで千六百|米《メートル》(一哩)だけ全速で泳いでも世界記録で二十分以上、大学の一流選手でも二十二三分で泳いでゐる始末だ。私が中学一年のとき、佐渡出身の斎藤兼吉といふ人が始めてオリンピックの水泳に自由型へ出場して片抜手で泳いだ。このときハワイのカハナモクのクロールに惨敗し、クロールといふバタ足の異様な泳ぎを習ひ覚えて日本へ持ち帰つて伝へたので、私達はこの先生からコーチしてもらつてゐたから、日本古来の泳法は速力の点で問題にならぬことを知つてゐた。まして平泳ときては論外で、一哩だけ切り離して全速で泳いだつて世界一の選手でも三十分では危いだらう。三十二哩を十六時間とは出来ない相談で、もし本人がそれを信じてゐるとすれば益々自分の力量を知らない食はせ者だ。
果せる哉、この男は途中十二哩佐渡行の汽船にのり、どういふ量見だか佐渡の手前で又海へとびこんで夕方七時に両津へついた。二十哩しか泳いでをらぬ。途中十二哩も汽船に乗つて、それで尚、十六時間半かゝつているのである。そして彼の曰く、新潟佐渡間は潮流が意外に激しく思ふやうに進まなかつたのだ、と。
私は村山臥龍先生を尊敬してゐるのである。先生はモータアボートどころか小舟のお供もつれてをらぬので、いつたん佐渡まで泳ぎつき、又、泳いで戻らうといふのが愉快ぢやないか。我々にとつて水泳は遊びだけれども、水泳家の先生には職業であり、わが魂魄を打ちこみさゝげた術であり、だから私は、先生が佐渡から戻る途中で永遠に消息を絶つたといふのが、なんとも朗かで、大好きなのだ。たぶん夜であつたらう。私はさう思ふ。夜にかゝらずに泳ぐことはできない。たぶん鱶《ふか》に襲はれたのだらう、と私は思ふ。悔ゆることはない。私は新潟の浜辺から佐渡を眺めて先生のことを思ふのが愉しい。
私が新潟にゐる期間、もう秋になつてから、檀一雄がやつてきた。ちやうど大詔奉戴日《たいしようほうたいび》といふ禁酒の日だから仕方がない、こゝならいつでも酒があるといふ親類の病院で酒を強奪して、海へ行き、無理矢理浜の茶屋へあがつて酒は悪いがブドウ酒ならよからうとブドウ酒もだしてもらつて酒をのんだ。そのとき、まだいくらか明るさが残り、西日の沈む彼方にやがて闇へ溶けようとする佐渡が見えた。私が村山臥龍先生に就いて熱弁を弄したのは云ふまでもない。檀一雄が感動したのは論外で、彼は仲秋名月を松島まで出かけて眺めるやうな奇妙に古風な男だから、かういふ千古の美談佳話には全くもろいのである。私が酔つ払つて海辺へ小用に立つと、茶屋の二階の檀一雄が慌てゝ身をのりだして逸《はや》まるべからずと叫んだが、彼は私が酔つたまぎれにザンブと海へとびこみ佐渡へ向つてやがて日本海のモクズと消えると思つたのである。
大観堂も遊びにきた。別に原稿の催促はせず、いや、したかな、彼は諦めてゐるのである、何しろ天地は戦争だ、一晩酔つ払つて帰つて行つた。私は荒天の日本海で、泳ぎばかりではない、駈けたり、跳んだり、逃げる用意も、穴ボコへ誰よりも早くもぐりこむ用意もとゝのへてゐた。
昭和十八年の秋から徴用といふ奴が徹底的に始まつてきた。大井広介といふ男が本名は麻生某といつて、彼は元来九州の石炭屋の一族だ。こゝなら徴用が逃れるといふので、井上友一郎が先づ社員となつて九州へ、つゞいて平野謙、荒正人と俄か石炭社員ができたが、どうも坂口安吾といふ呑んだくれだけは社の風紀に関するといつて入れてくれないから仕方がない。尤も私は時々この会社へ宿酔《ふつかよい》をさましに遊びに行つて社長の空椅子にふんぞりかへつて昼寝するものだから、支店長が怖れをなして入社させてくれないので、尤も入社しなくて良かつた。私は日本映画の嘱託になつたが、こゝは一週間に一度、それも十五分だけ顔をだすと、月給をくれるからで、石炭屋はかうはいかないだらう。
十五分といふのは専務と話をする時間だ。外に仕事はない。そして、その週のニュースと文化映画と、それからよその会社や外国の映画を地階の試写室で見せてもらつて帰つてくるので、そのうちに専務の方もうるさがつて十五分の映画芸術論もやらなくてもいゝやうな顔付だから、これ幸ひと十五分の出勤も省略して、月給日だけ出掛けて行く。尤も、家にゐて脚本を書いた。三ツ書いたが、一つも映画にならなかつた。
昭和十九年になつた。ラバウルから突如としてサイパンがやられる。私は映画屋のともかく片隅の一員で試写室でニュース映画から、専務の部屋で専務から、いくらか時代の空気を見聞して、それだけが私の時代との接触で、あとの一週間の
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