も私がはじまりだ。
私がたのしみにしていた胸までの深さのところは、水底の変化で、ようやく膝を没する程度の深さでしかなくなっていた。しかし、この水の冷めたさは、冷水浴になれた私に、最上の適度であった。冷めたすぎず、また、ぬるくもない。
しかし、私は目当の場所を往復するのに、何回ひっくりかえったか分らない。川底はタクアン石大の石で敷きつめられているから、足を踏みすべらしてしまうのである。それから三日あと、よほど催眠剤がきれたようですね、と高橋が云った日に又水浴にでむいた時には、なるほど、もはや転がらなかった。
第一日目と第二日目の記憶がモウロウとしている。第二日目は、早朝に長畑さんが手術のために東京へ戻り、私たちは南雲さんの案内で、一碧湖《いっぺきこ》へ遊びに行った。私はこゝでも水浴をやったが、湖底が泥土で足クビまでめりこみ、おまけに水のなまぬるさ、湖水などとは思われない。第三日から温灸をはじめ、第五日目に青山二郎のヨットをかりて遊んだ。私がヨットに乗ったのはこれがハジメテであった。
しかし、ヨットによって猛烈に紫外線をあびたことゝ、催眠薬の作用がきれてきたせいか、この日から、終夜不眠になやみはじめた。温灸の婆さんは、この温灸をやると、人によっては当分ねむれなくなるから我慢しなさい。しかし、一定の期間がくると、今度は良くねむれる、などと前夜とアベコベのことを云って、益々私を怒らせたのである。
つまり、この婆さんは、自讃の効能が一向に現れないといわれると、平然と前言をひるがえして、勝手な理窟をこねるタチであった。あげくは、東京の人は理窟が多い。ハイハイと言う通りにきかないから治療がきかない、などとカケアイ漫才をやりはじめる。インチキも、陰にこもって、軽快なところがないから、ショウヅカの婆アのカケアイ漫才でもきかされているように不快であった。
伊東の海は岬の奥に湾入して、概ね波が静かであるが、音無川から流れでる石のために、海底が危険で、水の澄んだ音無川にくらべて、海底が見えず、膝小僧にぶつかるぐらいの大石が散在したりして、私は忽ち相当の負傷をした。この負傷のために今もって歩行に難渋であるが、この時は催眠薬中毒のせいではなくて、未知の海へとびこんだための失敗だった。
夕凪ぎになるとヨットも動かなくなり、ナメクジの海上歩行で辛くも辿りつく勇士もあるし、商船学校の豪
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング