に病的だと思いこむことは出来ないのである。
 私は今日に至って、職業上の過労から、二十一歳の愚を再びくりかえしてしまったのである。しかし、この愚を犯した責任の全部は私にあって、ほかの誰にもないのである。私は誰からも強制されはしなかった。時には責任感から過労も敢てしたが、必ずしも、そうする必要はなく、私が意志しさえすれば、無理な過労は避け得られる性質のものであった。
 この春の退院後は、もはや覚醒剤もアドルムも飲むまいと思っていたが、将棋名人戦の観戦をキッカケに、覚醒剤をのんでしまった。これとても私自身の意志したことであり、すべては私一個の責任であった。
 すでに事理は明白であるが、要するに、私は仕事のためには死も亦《また》辞せず、という思いが、心に育っているのであろう。これを逆に云えば、是が非でも生きぬいて仕事を完成しなければならぬ、という胸の思いでもあるのであろう。逆のようだが、この二つは同じことだ。帰する所は、仕事がすべて、という一事だけだ。
 私は今に至って、さとったが、精神の衰弱は自らの精神によって治す以外に奥の手はないものである。専門医にまかせたところで、所詮は再発する以外に仕方がない。
 内臓の疾患などは、その知識のない患者にとって如何とも施す術《すべ》がないけれども、精神の最上の医者は、自分以外にはいない。私が今、切にもとめているのは肉体上の健康で、精神はハッキリ、たゞ私だけのものであることを悟るに至った。

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 しかし、精神の健康とは、何を指すのであろうか。たとえば、「仕事がすべて」という考え方が、すでに、あるいは不健康であるかも知れない。その場合には、私は、すでに言うべき言葉はない。たゞ知りつゝ愚を行い、仕事を遂げるだけのことである。すくなくとも、芸術の方法は、それ以外にはないようである。

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 私は伊東へくる車中で、人と喧嘩をしようとした。私は何より喧嘩などは好まぬ方で、酒に酔っ払っても、喧嘩はしたことがない性分である。この一事を見ても、相当に催眠薬の中毒があったことはマチガイない。
 伊東へつく。一行は直ちに尾崎士郎を訪ねて酒をのむ。私は酔っ払って、音無川へ水浴に行った。尾崎士郎を訪ねた時の酔余のよろこびはこれである。音無川で水浴したのも私が最初。裏の畑の野天風呂で晩秋に夕陽をあびて一風呂あびたの
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