受けはしないかと思う。
 その意味に於て、私の作品はアマイという批評も有りうると思うが、これが、また、問題のあるところで、作品人物をいたわっている、いたわるためにいたわるのではなくて、かくいたわること自体、いたわり方自体に、私の生き方がある、私の思想の地盤がある、そのことを先ず第一に気付き、考えていたゞかねばならぬ。
 私の「堕落論」とか、人生肯定の態度の底には、この「いたわり」がひそみ、そして、この「いたわり」が徐々に変貌しつゝある。もっと冷酷に鬼の目をむいてみせることは易しいことだ。鬼になるか、人になるか、そこにも又、問題はあるであろうし、私も人たらず、鬼とならざるを得ぬような生長変貌が行われぬとは云いきれぬ。未来のことは分らない。ともかく私が現在辿り得た思想の地盤というものは、私の自伝的作品に於て、私が選んで語らなかった事実、その選び方の上にあるということを知って欲しい。
 そして、その知り方は、読者は事実的にそれを知ることは出来ないのであるから、逆に、書かれていることの事実を、事実としてゞなしに、作者の思想の息吹を通して読みとって欲しい。
 丹羽文雄君が「二十七」を不マジメな私小説だと云い、あのように他人のスキャンダルを露出してはいかぬ、と述べていることが、まったく的はずれであること、以上、のべたところで判っていたゞけると思う。
 あの作中、たゞ一人、Wという人だけが仮名で出てくる。丹羽君は、なぜWだけ仮名にしたか、仮名にする意味がないではないか、という。
 自伝とか私小説といえば、事実を主体にしたものと思うことしか知らぬから、そういう批評が出てくるのだが、あのWは、どうしても仮名でなければならないのである。
 なぜなら、あの作中の諸事実は、すべて私の一つの角度、一つの思想によって、選ばれ、構成されているのだが、Wの場合だけは、構成を外れた事実であって、これに就てのみ、作者は選択や構成ができず、つまり、いたわるところがミジンといえども無いのである。だからW氏に限って、どうしても、仮名でしか書くことが出来ないのである。
 なぜ、Wだけが仮名であるか、こういうところに私の文学を読み解く鍵が秘められているのであるのに、丹羽君の如く、Wだけ仮名にするとは言語道断、なぜ他の人々に限って実名でスキャンダルを書きあばくか、こう平ぺったく、紋切型にしか読めなくては話にならぬ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング