術使ひの足跡を正史にとゞめてゐる者は金鍔次兵衛の外にはない。
 ポルトガルの商船はまた長崎に入港したが、乗員達はもはや上陸を許されず、早晩貿易禁止は必然で、日本潜入の神父も後を絶たうとし、信徒と教団の連絡は絶望的になつてゐた。潜入の神父はあらかた刑死し、フェレイラは棄教、残存するのは金鍔次兵衛ぐらゐのもので、あとは消息も分らない。
 その年の長崎及びその近郊に行はれた降誕祭《ナタル》のミサは無茶苦茶だつた。信徒達は殺気立ち、捕吏が来たら捕へて殺してしまふ覚悟で、各々の秘密集会所で祈り泣き歌ひ、牛小屋を清めて水をはり、彼らはもう死の狂躁と遊んでゐた。それは神父《パードレ》金鍔次兵衛の指図であり、絶望と破壊の遊戯は彼の姿の影であつた。逃亡潜伏に熟達した次兵衛はとにかく、信徒達の狂躁が捕吏に分らぬ筈はない。彼によつて修道服を受けた数人を始め七百名余りの信徒達が一網打尽となり、刑場に送られて焼き殺されてしまつたが、次兵衛のみは風であつた。彼は天草へ舞ひ戻り、鳥銃をぶらさげて冬山の雑木林をぶら/\歩いてゐたのである。
 あの男は平和な人々を破壊と死滅へ追ひ立てる気だ、と渡辺小左衛門は悟つた。彼は天草最大の富豪であり、和漢を始め洋学にも通じたディレッタントで引込思案の男であつたが、レシイナに向けられた陰惨な眼を思ひだすと渾身の勇気がわいてきた。それは彼が安穏を欲するからであつたけれども、又、レシイナを熱愛してゐたせゐだつた。あの陰惨な魂の破壊の影が自分とレシイナの平和にまで及ぶだらうと考へると、曾《かつ》ては最大の敬意を以て迎へた神父であつたけれども、秘密に殺したくなつてきた。気違ひめ。俺は気違ひは嫌ひなのだ。そして天草の人間は、今はもう、一人残らずみんな気違ひにならうとしてゐる。あゝレシイナお前まで、お前はまさか弟の四郎が天人だと思ふ筈はないだらう。いゝえ、とレシイナは答へた。気の毒な農民達は畑の物を根こそぎ税に納めねばならず、食べる物もありませぬ。ゼスヽ様の御名を唱へても殺されます。世の中がこのまゝのやうで宜しい筈はございませぬ。あゝ、小左衛門は絶望した。だが、何といふ女であらうか。彼は異様に新鮮な色情すらも見たのであつた。全てが分らなくなつてきた。神とは何者であるか。四郎は何者であるか。そしてレシイナよ、お前まで俺の分らぬところへ飛び立つてしまひさうな気がする。
 金鍔次
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