混乱の嵐は吹きまくるが、九州を平定した切支丹は諸国に散在する信徒達に働きかけてその統一を次第にひろげて行くのである。ポルトガルやイスパニヤの商船がマカオやマニラから援軍と武器をもたらして陸続到着するのがその時だ。背後の海に強力な補給をひかへて九州はもう微動もなく、切支丹の勢力は日本全土の統一によつて完成するに至るであらう。それが次兵衛の見込であつた。なつかしいマニラの街が目に見える。海一杯に日本へ走るマニラの商船の帆の雲が見え、あの神父、あの船乗の陽気な顔まで見えるのだつた。走れ。帆よ。彼は夢に叫んでゐた。
彼の睡りに必要な牛小屋や納屋はどこにもあつた。彼は熊の胴皮を着て鳥銃をぶらさげ、あらゆる場所に現れてゐた。呼びかけ、そして、さゝやいてゐた。小さな然し逞しい彼の身体は疲れを知らない弾力性の鞠であつたが、彼の孤独な魂は、然し、時々、わけの分らぬ発作のために悶絶した。何者に向けるか分らない不思議な憎しみが起るのだつた。あらゆる者を憎んでゐた。そして、自らの魂すらも憎しみによつて刺殺した。劇烈な疲れが涯《はて》の知れない遠い厚さで四辺をとつぷり包んでゐた。
彼はレシイナを思ひだし、そして、その名を呼んでゐた。ふと気がついて飛び上るほど混乱したが、彼の魂は血に飢えた。彼は渡辺小左衛門を本能的に憎悪した。果してそれは恋であつたか? 彼はたゞレシイナの肉体を想像し、それがある人の自由のまゝであることを考へると、気が遠くなり、彼の感官は分離して、四方八方の予期せざる箇所に苦痛な不安がはゞたくのだつた。彼はひどくボンヤリし、呻き声をだすのであつた。みんな死ぬ、みんな死ぬ、彼の重い魂が呟いてゐた。
その呟きの声が渡辺小左衛門の耳にきこえてくるのであつた。あの男はあらゆる平和な人々をみんな殺してしまふのだ。間違ひもなくそれを彼が直覚してゐた。野も山も、人も木も、静かな小さな島よ。どうなるのだらう。神とは何者であるか。そして、四郎は神の子であるか。あゝレシイナ、お前だけは私のそばから離れてくれるな。彼は気違ひになりさうだつた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「近代文学 第一巻第一号」
1946(昭和21)年1月10日発行
初出:「近代文学 第一巻第一号」
1946(昭和21)年1月10日
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