それに水を撒いた。
数日の中には、流石に一人知り人に出会つた。二三の立ち話を交へて、笑ふこともなく、別れた。又一人会つた。彼は年老いた車夫だつた。私に、車に乗ることを、しきりにすすめた。私をのせて、車は日盛りに石のある道を廻転した。年と共に隆盛である幸福を、歌ふやうに彼は告げた。私は、よろこばしげに笑つた。幌がふるへた。ビヤホールに一人の女給が、表戸を拭いてゐた。車夫の家で、私達は水瓜《すいか》を食べた。
彼女の家に、別の家族が住んでゐた。幼かつた少女が、背をもたせて電線を見てゐた門は、松の葉陰に堅く扉を閉ぢてゐた。三角の陽が影を切つた。
私は耳を澄ました。私は忍びやかに通りすぎた。私は窓を仰いだ。長くして、私はただ笑つた。私は海へ行つた。人気ない銀色の砂浜から、私は海中へ躍り込んだ。爽快に沖へ出た。掌は白く輝いて散乱した。海の深さがしづもつてゐた。突然私は死を思ひ出してゐた。私は怖れた。私の身体は、心よりも尚はやく狼狽しはぢめてゐた。私の手に水が当らなくなつてゐた。手足は感覚を失つた。私の吐く潮が、鋭い音をたてた。私は自分が今吹き出していい欲望にかられてゐることを、滑稽な程悲痛に、意識した。私は陸《オカ》へ這ひ上つた。私は浜にねた。私は深い睡りにおちた。
その夜、病院へ泊つた。私は姉に会ふことを、さらに甚しく欲しなかつた。なぜなら、実感のない会話を交へねばならなかつたから。そして私は省るに、語るべき真実の一片すら持たぬやうであつた。心に浮ぶものは、すべて強調と強制のつくりものにみえた。私は偶然思ひ出してゐた。彼女に再び逢ふ機会はあるまい、と。それは、意味もなく、あまり唐突なほど、そして私が決して私自身に思ひ込ませることが出来ないほど、やるせない悲しみに私を襲ふのであつた。私は、かやうな遊戯に、この上もなく退屈してゐた。しばらくして、もはや無心に雲を見てゐた。
姉も亦、姉自身の嘘を苦にやんでゐた。姉は見舞客の嘘に悩んで、彼等の先手を打つやうに、姉自身嘘ばかりむしろ騒がしく吐きちらした。それは白い蚊帳だつた。電燈を消して、二人は夜半すぎるまで、出まかせに身の不幸を欺き合つた。一人が真実に触れやうとするとき、一人はあわただしく話題を変へた。同情し合ふフリをした。嘘の感情に泪ながした。くたびれて、睡つた。
朝、姉の起きぬうちに、床をぬけて海へ行つた。
港に六千|噸《トン》の貨物船がはいつた。耳寄りなニュースに、港の隆盛を町の人々が噂した。私は裏町に、油くさい庖厨《ほうちゅう》の香を嗅いだ、また裏町に、開け放された格子窓から、脂粉の匂に噎んでゐた。湯垢の香に私はしみた。そして太陽を仰いだ。しきりに帰心の陰が揺れた。
東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑踏に揉まれ、蹂《ふ》みしだかれ、粉砕されて喘へいでゐた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻らうと思つた。無言の影に言葉を与へ、無数の傷に血を与へやうと思つた。虚偽の泪を流す暇はもう私には与へられない。全てが切実に切迫してゐた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳《えいふん》へ帰らなければならない。と。
バクダンがバクダン自身を粉砕した。傍に男が、爽快な空に向つて煙草の火をつけた。
私達はホテルの楼上に訣別の食卓をかこんだ。街の灯が次第にふへた。私は劇しくイライラしてゐた。姉は私の気勢に呑まれて沈黙した。私達は停車場へ行つた。私達は退屈してゐた。汽車がうごいた。私は興奮した、夢中に帽子を振つた。
別れのみ、にがかつた。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 創刊号」岩波書店
1931(昭和6)年5月1日発行
初出:「青い馬 創刊号」岩波書店
1931(昭和6)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
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