れてゐた。
姉が病んで、この町の病院へ来てゐることを知つた。黒色肉腫を病んでゐた。年内に死ぬことを、自分でも知つてゐた。毎日ラヂウムをあててゐた。私の父も肉腫で死んだ。その遺伝を、私は別に怖れなかつた。
姉は聡明な人だつた。子供のために、よき母であつた。そのために、姉は年老いて、少女の叡智を失はなかつた。姉は私を信じてゐた。それ故、私は、姉に会ふことを欲しなかつた。全て親密さは、風景である私にふさわしくなかつた。それは、苦い刺激を私に残した。私は襤褸であつた。人の親密さを、受けとめるに足る弾力は、私の中に已になかつた。同じ土地に、姉の病むをききながら、見舞に行くことを、毎日見合はせた。彷徨の行きずりに、ときどき、薬品の香が鼻にまつわつた。私は目を閉ぢて、知らぬ顔をした。私はアイスクリームを食べた。匙を、ながく、しやぶつてゐた。
太陽の黒点を、町の新聞が論じてゐた。
訪れはせぬつもりで、病院の前へ私は来てゐた。私は往復した。看護婦が私を見てゐた。私は病院へ這入つた。姉は出迎へに走り出た。常人と殆んど変りは見えなかつた。ただ、死ぬことを心に決めた、実に淋しい白さがあつた。田舎から見舞に来た子供達が、丁度帰つたあとだつた。たべちらした物の跡が、部屋一面に散乱してゐた。楽しげな子供達を乗せた汽車が、私の目に勇ましく鉄橋を渡つた。子供を楽しく暮させるために、如何なる仮面をも創り出す人だつた、私の姉は。姉は子供について語つた。長女に結婚の話が持ち上つてゐた。その心配で、姉は病を忘れがちだつた。私は煙草を何本もふかした。姉は私にマッチを擦つた。姉は私の吸ひがらを掌にのせて、長くそれをもてあそんでゐた。夢に植物を見ると姉は語つた。
「お前のために素敵な晩餐会を開きたい……」
その言葉を、姉は時々くり返した。私は、ルイ十四世が、かつて開いた宴会の献立を、姉に語つた。姉は山毛欅《ぶな》の杜で食事をしたことがあつたと語つた。虚勢を張つて、二人はいつまでも、空々しい夢物語をつづけた。毎日病院を訪れることを約束した。子供達の見えない日には、私が病院に泊まることを約束した。
雪国の真夏は、一種特別の酷暑を運んだ。ひねもす無風状態がつづいた。そのまま陽が落ちて、夜も暑気が衰へなかつた。姉はしきりに氷を摂つた。窓の外に、重苦しく垂れてみる無花果の葉があつた。それに月が落ちてゐた。姉はそれに水を撒いた。
数日の中には、流石に一人知り人に出会つた。二三の立ち話を交へて、笑ふこともなく、別れた。又一人会つた。彼は年老いた車夫だつた。私に、車に乗ることを、しきりにすすめた。私をのせて、車は日盛りに石のある道を廻転した。年と共に隆盛である幸福を、歌ふやうに彼は告げた。私は、よろこばしげに笑つた。幌がふるへた。ビヤホールに一人の女給が、表戸を拭いてゐた。車夫の家で、私達は水瓜《すいか》を食べた。
彼女の家に、別の家族が住んでゐた。幼かつた少女が、背をもたせて電線を見てゐた門は、松の葉陰に堅く扉を閉ぢてゐた。三角の陽が影を切つた。
私は耳を澄ました。私は忍びやかに通りすぎた。私は窓を仰いだ。長くして、私はただ笑つた。私は海へ行つた。人気ない銀色の砂浜から、私は海中へ躍り込んだ。爽快に沖へ出た。掌は白く輝いて散乱した。海の深さがしづもつてゐた。突然私は死を思ひ出してゐた。私は怖れた。私の身体は、心よりも尚はやく狼狽しはぢめてゐた。私の手に水が当らなくなつてゐた。手足は感覚を失つた。私の吐く潮が、鋭い音をたてた。私は自分が今吹き出していい欲望にかられてゐることを、滑稽な程悲痛に、意識した。私は陸《オカ》へ這ひ上つた。私は浜にねた。私は深い睡りにおちた。
その夜、病院へ泊つた。私は姉に会ふことを、さらに甚しく欲しなかつた。なぜなら、実感のない会話を交へねばならなかつたから。そして私は省るに、語るべき真実の一片すら持たぬやうであつた。心に浮ぶものは、すべて強調と強制のつくりものにみえた。私は偶然思ひ出してゐた。彼女に再び逢ふ機会はあるまい、と。それは、意味もなく、あまり唐突なほど、そして私が決して私自身に思ひ込ませることが出来ないほど、やるせない悲しみに私を襲ふのであつた。私は、かやうな遊戯に、この上もなく退屈してゐた。しばらくして、もはや無心に雲を見てゐた。
姉も亦、姉自身の嘘を苦にやんでゐた。姉は見舞客の嘘に悩んで、彼等の先手を打つやうに、姉自身嘘ばかりむしろ騒がしく吐きちらした。それは白い蚊帳だつた。電燈を消して、二人は夜半すぎるまで、出まかせに身の不幸を欺き合つた。一人が真実に触れやうとするとき、一人はあわただしく話題を変へた。同情し合ふフリをした。嘘の感情に泪ながした。くたびれて、睡つた。
朝、姉の起きぬうちに、床をぬけて海へ行つた。
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