港に六千|噸《トン》の貨物船がはいつた。耳寄りなニュースに、港の隆盛を町の人々が噂した。私は裏町に、油くさい庖厨《ほうちゅう》の香を嗅いだ、また裏町に、開け放された格子窓から、脂粉の匂に噎んでゐた。湯垢の香に私はしみた。そして太陽を仰いだ。しきりに帰心の陰が揺れた。
 東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑踏に揉まれ、蹂《ふ》みしだかれ、粉砕されて喘へいでゐた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻らうと思つた。無言の影に言葉を与へ、無数の傷に血を与へやうと思つた。虚偽の泪を流す暇はもう私には与へられない。全てが切実に切迫してゐた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳《えいふん》へ帰らなければならない。と。
 バクダンがバクダン自身を粉砕した。傍に男が、爽快な空に向つて煙草の火をつけた。

 私達はホテルの楼上に訣別の食卓をかこんだ。街の灯が次第にふへた。私は劇しくイライラしてゐた。姉は私の気勢に呑まれて沈黙した。私達は停車場へ行つた。私達は退屈してゐた。汽車がうごいた。私は興奮した、夢中に帽子を振つた。
 別れのみ、にがかつた。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 創刊号」岩波書店
   1931(昭和6)年5月1日発行
初出:「青い馬 創刊号」岩波書店
   1931(昭和6)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
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