ふるさとに寄する讃歌
――夢の総量は空気であつた――
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)泌《し》みた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六千|噸《トン》
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私は蒼空を見た。蒼空は私に泌《し》みた。私は瑠璃色の波に噎《むせ》ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかつた。私は磯の音を私の脊髄にきいた。単調なリズムは、其処から、鈍い蠕動を空へ撒いた。
私は窶《やつ》れてゐた。夏の太陽は狂暴な奔流で鋭く私を刺し貫いた。その度に私の身体は、だらしなく砂の中へ舞ひ落ちる靄のやうであつた。私は、私の持つ抵抗力を、もはや意識することがなかつた。そして私は、強烈な熱である光の奔流を、私の胎内に、それが私の肉であるやうに感じてゐた。
白い燈台があつた。三角のシャッポを被つてゐた。ピカピカの海へ白日の夢を流してゐた。古い思ひ出の匂がした。佐渡通ひの船が一塊の煙を空へ落した。海岸には高い砂丘がつづいてゐた。冬にシベリヤの風を防ぐために、砂丘の腹は茱萸《ぐみ》藪だつた。日盛りに、蟋蟀が酔ひどれてゐた。頂上から町の方へは、蝉の鳴き泌む松林が頭をゆすぶつて流れた。私は茱萸藪の中に佇んでゐた。
その頃、私は、恰度《ちょうど》砂丘の望楼に似てゐた。四方に展かれた望楼の窓から、風景が――色彩が、匂が、音が、流れてきた。私は疲れてゐた。私の中に私がなかつた。私はものを考へなかつた。風景が窓を流れすぎるとき、それらの風景が私自身であつた。望楼の窓から、私は私を運んだ。私の中に季節が育つた。私は一切を風景に換算してゐた。そして、私が私自身を考へた時、私も亦、窓を流れた一つの風景にすぎなかつた。古く遠い匂がした。しきりに母を呼ぶ声がした。
私は、求めることに、疲れてゐた。私は長い間ものを求めた。そのやうに、私の疲れも古かつた。私の疲れは、生きることにも堪え難いほど、私の身体を損ねてゐた。私は、ときどき、私の身体がもはや何処にも見当らぬやうに感じてゐた。そして、取り残された私のために、淡い困惑を浮べた。私の疲れは――たとへば、茱萸の枝に、私は一匹の昆虫を眺めてゐるのであつた。昆虫は透明な羽をかぼそく震はせてゐた。私は私の身体が、また透明な波であることに気付いてゐた。それは靄よりも軽い明暗でしかなかつた。昆虫の羽の影が
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