は透明な羽をかぼそく震わせていた。私は私の身体が、また透明な波であることに気付いていた。それは靄よりも軽い明暗でしかなかった。昆虫の羽の影が、私の身体にあわく映ってゆれた。赤熱した空気に、草のいきれが澱んでいた。昆虫は飛び去った。そしてその煽りが鋭く私の心臓を搏撃したように感じられた。太陽のなかへ落下する愉快な眩暈に、私は酔うことを好んだ。
長い間、私はいろいろのものを求めた。何一つ手に握ることができなかった。そして何物も掴まぬうちに、もはや求めるものがなくなっていた。私は悲しかった。しかし、悲しさを掴むためにも、また私は失敗した。悲しみにも、また実感が乏しかった。私は漠然と、拡がりゆく空しさのみを感じつづけた。涯もない空しさの中に、赤い太陽が登り、それが落ちて、夜を運んだ。そういう日が、毎日つづいた。
何か求めるものはないか?
私は探した。いたずらに、熱狂する自分の体臭を感ずるばかりだった。私は思い出を掘り返した。そして或日、思い出の一番奥にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り当てた。それは一人の少女だった。それは私の故郷に住んでいた。辛うじて、一、二度、言葉を交した記憶があった。私が故郷を去って以来――十年近く、会うことがなかった。今は生死も分らなかった。而し、掘り出した埃まみれな面影は、不思議に生き生きと息づいていた。日数えて、私は、その面影の生気と、私自身の生気とに区別がつかなくなっていた。私は追われるように旅に出た。煤煙に、頬がくろずんでいた。
私はふるさとに帰りついた。
ふるさとに、私の生家はもう無かった。私は、煤けほうけた旅籠屋の西日にくすんだ四畳半へ、四五冊の古雑誌と催眠薬の風呂敷包みを投げ落した。
雪国の陰鬱な軒に、あまり明るい空が、無気力や、辛抱強さや、ものうさを、強調した。鉛色の雪空が、街のどの片隅にも潜んでいた。街に浮薄な色情が流れた。三面記事が木綿の盛装をこらして……。私はすでに、エトランジェであった。気候にも、風俗にも、人間にも、そして感情にも。私は、暑気の中に懐手して、めあてなく街を歩いた。額に、窓の開く音が、かすかに、そして爽やかに、絶え間なくきこえていた。その音は、街路樹の睡った、しずかに展ける一つの路を私に暗示した。それは如何なる寂しさにも、私に路を歩ませる力を与えた。私は疑い深い目で、行き交う全ての女を見た。
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