、六百枚ほど出来上り、あと百枚か百五十枚で終るところで私の自信は根こそぎ失はれてゐた。自信が失はれるといふことは単に自信が失はれるといふことではないので、絶望するといふことと同じ意味に外ならぬのだ。烏が孔雀の羽をつけるといふが、我々雀は鷹を夢み、烏は孔雀の羽をむしられるだけで話はすむが、鷹を夢みる雀は鷹に食はれて糞になる。そして糞からもとの雀に戻るまで、朝に嘆き、昼に絶望し、夕べに怒り狂ひ、考へることを何よりも怖れ、考へる代りに酒を飲み、酒を飲むと、怒り狂はずにゐられなくなり、自分はおろか人にまで八ツ当り、馬鹿者の中の馬鹿者であつた。原稿用紙に埃がつもり、見まいとしても部屋の中の机の上だもの見ずにゐられるものか、見るたびに一度に心が冷えきつて曠野を飄々風が吹く。私は坂口安吾といふ名前であることを忘れようとした。本当に忘れようとしたのだ。どうしても名前の思ひだせない人間で、どこで生れ、どこから来てどこへ行く人間だか、本人にもしつかと分らない人間で、一ヶ月二十円の生活に魂を売つた人間で、昼頃起きて物を食ひ、夕べに十二銭の酒に酔つ払つてゴロリとねむる酒樽のでき損ひのやうな人間なのだ、と、どうしてそれを信じることが出来ないのだらう。事実それだけの人間ではないか。しかも、どうしてそれを信じることが出来ないのだ。
諸君は京都の街を知つてゐますか。東山北山西山と云ひ、南を残して三方はぐるり山にかこまれてゐます。街は春の季節でも北の山と西の山には雪があるほど高い山で、京都の街から京都の街へ行く為に深い幽谷のやうな峠を越すところもあります。私の窓からは京都の山々がみんな見えます。山を見ると私は泣きだしさうになつて怒ります。ムッシュウ・スガンの山羊といふ話を知つてゐますか。然し、その話とも違ひます。山はいつも綺麗ですよ。人のゐない野原ではなく人間だらけの屋根の上の山の姿は泌《し》みるやうに鮮やかなのです。山を見ると、私はいつもたゞ山だけになつてしまつた。私自身が山になつた。私といふ人間はこんなケチな、センチメンタルな人間で、忽ち山の姿を映すやうな人間で、鷲と鷹しか翔べないやうな大山脈を映すことのできないケチな人間である切なさに、ふるへだしてしまふのでした。すでに芸術の鳥はとび去り、部屋にひとかけの糞のかたまりが落ちてゐました。
一年たつた。私は竹村書房へ速達をだした。あと二ヶ月で小説は完成する。金を送れ。それは大嘘であつた。マッカな嘘である。けれども本当なのだ。私は一年間一字も書いてをらず、今もなほ一字も書きだす力はなかつた。私は然し本屋をだますためではなしに、私自身をだますため、私自身に嘘ッパチの贋物の決意をつくらせるために、余儀ない命令を下すために、うそッパチな手紙を書かずにゐられないのだ。私は私自身を決死隊のあの無理強ひの贋物の決意のなかに突きださなければ仕方のない気持になつてゐたゞけだつた。
本屋から金が来た。私はそれを握つて酒を飲みに行つた。私は気がつかなかつたが、着物をあべこべに着てゐたのである。私は人にジロ/\見られたことも意識してゐなかつた。酒をのむ家へ行き、そこの女中に注意されて、私はマッカになつた。その気持は京都を去る最後の日まで、否、今も尚、私の記憶から、消すことができない。私はその翌日から無理強ひに仕事を始めた。それは贋物の仕事であつた。私は着物をあべこべに着てゐた。私の魂が着物をあべこべに。私は――仕事をしながら、あべこべの着物を仕事自体に意識しつゞけてゐたのである。
私は七百五十枚の小説をかゝへて東京へ戻つてきた。昭和十三年の初夏、私は然し、着物がないので、ドテラを着て東京へつき、汽車の中では刑事に調べられてウンザリしたものだ。東京で一年間、私は威張りかへつた顔をしてゐたが、自信はなかつた。そして一年たち、今年こそ本当にギリ/\の作品を書かなければ私はもう生きてゐない方がいゝのだと考へて、利根川べりの取手といふ町へ行つた。私の見知らぬ町であり、何のゆかりもない町だ。竹村書房が探してくれたのだ。彼は魚釣りが好きであり、こゝは鮒釣りの著名な足場のひとつださうで、彼の行きつけの旅館があり、そこの世話で、取手病院といふところの、そこはもう主人が死んで病院ではなくなつてゐる離れの家へ住んだのである。
京都ではともかく満々たる自信をもつて乗りこむことができたので、そのときは書くべき題材に心当りと自信があつたからであるが、取手では、何かギリ/\の仕事をしなければ死んだ方がいゝのだ、といふ突き放された決意の外には心に充ち溢れる何物もなかつたのである。
何よりも感情が喪失してゐた。それは芸ごとにたづさはる人でなければ多分見当のつかないことで、そして芸ごとも、本当に自信を失つて自分を見失つた馬鹿者でないと、この砂漠の無限の砂の
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