上を一足づゝザクリ/\と崩れる足をふみぬいて歩くやうな味気なさは分らない。私はひけらかして言つてゐるのではない。こんな味気なさをかみしめねばならぬのは、馬鹿者の雀の宿命で、鷲や鷹なら、知らずにゐられることなのだ。私はもう、私の一生は終つたやうにしか、思ふことができなかつた。
この町では食事のために二軒の家しかなく、一軒はトンカツ屋で、一軒はソバ屋であつた。私は毎日トンカツを食ひ、もしくは親子ドンブリを食つた。そして夜はトンパチといふ酒をのむ。トンパチは当八の意で、一升の酒がコップ八杯の割で、コップ一杯が一合以上並々とあるといふ意味だといふ。一杯十五銭から十七銭ぐらゐ、万事につけて京都よりは高価であつたが、生活費は毎月本屋からとゞけられ、余分の飲み代のために、都新聞の匿名批評だの雑文をかき、私はまつたく空々漠々たる虚しい毎日を送つてゐた。
この町の生活も太平楽だつた。ある夏の日盛りのこと、伊勢甚(旅館)の息子が誘ひにきて、旅館の小舟をだして、この小舟を利根川の鉄橋の下へつないで寝ころぶのだが、これは涼しい特別地帯で、鉄橋の下の蔭を川風が吹き渡り、夏の苦しさを全く忘れ果てゝしまふ。もつとも旅館の息子は川の水をヂャブリとくんで平気でお茶をわかすが、利根川もこのへんは下流であり、あるとき舟のすぐ横へ暗紫色のふくれあがつた土左衛門が流れてきたことがあつた。この土左衛門は兵隊で、四日前に溺れて死んで、その聯隊の兵隊が毎日沿岸を探し廻つてゐたのである。
あるとき小舟の中でねころんでゐると百|米《メートル》ほど下流に何百人の人だかりに気がついたので、ザブンと飛びこんで泳ぎついてみると、今しも人が死んだところだ。親父が釣をしてゐた。小学校四年の子供が泳いで溺れて、親父が慌てゝ飛びこんで二人とも沈んでしまつたのだ。この釣り場の川底はスリ鉢型の窪みがいくつかあつて、この窪みの深さは十尺以上で、それが幾つもあり濁つてゐるから探すのが大変な苦労である。小舟やボートが十隻ほどでて、てんでに竿で川底をさぐり、このへんで唯一人といふ泳ぎ達者の商売人の漁師がきて泳ぎ廻つてゐるけれども死体のありかゞ分らない。
私は泳ぎの名人である。子供の時から学校を怠けてゐるから、遊ぶことは大概名手で、私が子供の頃は海が一番の遊び場だから、海は私のふるさとで、今でも私は海を眺めてゐると、それだけで心が充たされてゐるのだ。私が中学一年の時、そのころ高師の生徒で佐渡出身の斎藤兼吉といふ人がオリムピックに出場して、片抜手で自由型を泳いで、カワナモクのクロールに惨敗して、クロールを習ひ覚えて帰つてきた。この人を例年のコーチにしてゐた新潟中学ではその年すでに日本で最初のクロールを覚えたわけで、私はつまりカワナモク型の最も古風素朴なクロールを身につけたわけである。然し私はそれよりも潜水の名手なので、少年時代は五〇米プールを悠々ともぐつたものである。尤もあるとき腕にまかせて海の底へもぐりこみ、突然グァンと水圧で耳をやられ、幸ひ鼓膜は破れなかつたが、危く気を失ふところで死にかけたことがあつた。
かういふ私であるから取手唯一の河童漁師などがヘッピリ腰でもぐつてゐるのはをかしくて仕方がない。私はオッチョコチョイだから、ざんぶと飛びこみ、川の底をもぐり廻つて、忽ち死体をつかみあげた。かういふと話は簡単だが、事実話は簡単なのだが、私の心にだけはさうでないことが起つたのである。みなさんは先づ川の底といふものが海の底のやうに透明でなく、土の煙りが濛々と立ち上り半米ぐらいしか視界がきかない暗さであることを知る必要がある。その半米の視界も土の煙りが濛々とうづまいて極めてかすかな明るさでしかないのである。突然私の目の前へニュウと腕が突きでゝきた。それは川底の流れにユラ/\ゆれ、私の鼻の先へ私をまねいてゐるやうにユラ/\と延びてきたのである。川底の暗さのために、腕だけしか見えなかつたのは、まだしも私の幸せであつたらう。それは子供の片腕だつた。私はそれを掴んで浮き上つたのだが、水の中の子供の身体などは殆ど重量の手応へがないもので、ゴボウを抜くといふその手応へを私は知らないが、あんまり軽くヒョイと上つてきたのでびつくりした程だつた。私が首をだす。つづいて死体の腕をグイとひきあげると、アヽ、といふ何百人の溜息が一度に水面を渡つてきた。だが私は、再び水底へもぐる勇気はなかつた。私の最初にひきあげたのが親父の方であればまだ良かつたかも知れぬ。なぜなら子供の死体の方はそれほどの凄味も想像されぬからで、親父の死体が今もなほ渦まく濛気の厚い流れの底にあり、今度はユラ/\した手でなしに、その顔がニューと私の目の前へ突きでてくる時のことを想像すると、とても再びもぐる勇気がなかつた。
伊勢甚の息子はひどくカンのいゝ青年で、
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング