言ふために、かうしてお喋りしはじめたのでした。さて、いよいよそれを言つてみますと、僕は別段プルウストのやうに、美しい婦人の友達を得て、自分の小説を語つてきかせる立場が欲しいと思つてはゐないのですよ。僕は少年の頃、学芸会の余興なんぞに、落語を語るのが得意でしたつけ。ですが今は――むろん美しい友達に小説の話もするでせうが、それによつて、僕の作品が高まる筈はありません。プルウストももとより同断。中にはスタンダールなんといふ感激好きの騎士もゐて、メチルドなどいふ夢の観音をでつちあげて、その精神も芸術も常に高められてゐるやうな誇大なことを好んで言ひふらしてゐるのですけど、さうして実は僕もさういふ嘘つぱちな感動を言ひふらすのが好きなんですけど、実際は――君はにや/\笑ひだしてゐるやうですね。実際は、感激したり力んだりしてみても、いざ実際に作品となれば、そんな魔術は薬九層倍ほどの御利益もありません。
薬師仏にぬかづいてあまたの物語をみせたまへと念じた乙女は、十三の年京にのぼり、思ひの通り数々の物語を読むうちに、いつとなく物読むことからも遠くなり、「辛うじて思ひよることは、いみじくやんごとなきかたちありさま、物語にある光源氏などのやうにおはせむ人を、年に一度にても通はし奉りて、浮船の女君のやうに、山里にかくし居《す》ゑられて、花、紅葉、月、雪ながめて、いと心ぼそげにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめとばかり思ひつづけ」るやうな年頃になります。このひと後に信濃守某に嫁し、その一生を終るのですが、「年月は過ぎかはり行けど、夢のやうなりしほどを思ひいづれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、まださだかにもおぼえず。人々はみな外にすみあかれて、故郷にひとり、いみじう心ぼそくかなしくて、ながめあかし侘びて、久しうおとづれぬ人に、
茂りゆく蓬が露にそぼちつつ人に問はれぬねをのみぞなく
尼なる人なり。
世のつねの宿のよもぎに思ひやれそむきはてたる庭のくさむら」と、その一生の日記を書き終つてゐるのであります。
君は常々叡智ひらめく童女たちがやがて一介の女となりはててしまふことを嘆いてゐますね。更科日記の著者も亦《また》結局あきらめに生きるあの日本のひとりの女であつたのでしたが、この素直な無常観はひねくれた僕の心も打ちますし、また思ひ出の素直さが、清らかなほど澄んだ絵巻をくりひろげてもくれます。然し、このひとの素直な清らかな心情は、つひに自ら物語るそれにはなり得なかつたのですね。結局このひとの心情と叡智は、日本の最も代表的な、物語を読む側のすぐれた叡智であつたことを証してゐます。君のために、君の物語をきくために、プルウストの何々夫人と同じやうに、このやうなをみなごをあれかしと僕はしきりに思つたのでした。
皆人の仰せらるるにより、若い時に旅をせねば老いて物語がないからといふ土の中のせつない感情や、薬師仏に身をすててぬかづき、物語のある限りみせたまへと念ずる心情は、今もなほ地上に生きてゐる筈であります。何等かの形で、人と共に、それは永遠に生きつづけるに相違ありません。
菱山君。そのやうな人々の「いのち」となるやうな物語を、僕は書き残しておきたいのです。――人がきいたら笑ふやうな、軽いことと言つたのは、実はこのへんのことでありました。
このやうな物語の場合には、作者の性格も、作者の伝記も、作者の名前すら不要なのですね。そしてまた単に行数の上から云へば、万葉の一行の和歌と同じいのちになるわけですが、そのやうなことは、凡そ文学の問題にはなりますまい。
僕は先日「松浦宮物語」といふものを読みました。次のやうな筋なのです。昔藤原宮の御時、参議氏忠といふ人があつた。七歳で詩をつくるほどの天才であつたが、心も美しく、また容貌もすぐれて、帝のいつくしみを受け十六歳で早くも中衛少将となり、従上の五位となつた。皇后の御腹のかんなひこのみこに恋したが、かなはず、失恋に歎き苦しんだ。翌年遣唐使をだされることになり、氏忠は十七の若いみそらで副使となり、はるばる唐へ赴いた。八月十五夜のことであつた。月にさそはれて唐の都の郊外を歩いてゐると、陶弘英といふ老翁の手引で、皇帝の妹の華陽公主から琴を習ふことになつた。仙人の秘曲をこの世につたへる因縁のためなのである。華陽公主の美しさに、ともすれば乱れがちになるのを、ここは仙人の通ふうてなだからと公主にいはれて、五鳳楼のもとであふ約束をする。公主がこの世に生れたのは仙人の秘曲を伝へるためで、契を結べばたちどころに命をめされるのであつたが、命をかけてもあはうと思ふならばといつて、約を果し、華陽公主は逝去された。やがて氏忠は唐の皇帝に重用され、政に参与するほどになつたが、皇后の美しさに、その面影を忘れかねて夜もねむれぬ身となつた。悶々の情をはらさうと一夜散歩にでかけると、松風の中に簫《しよう》の音をきいた。音を辿つて簫を吹く女を知り、心みだれて一夜の契りを結んだ。その女を忘れかねる身となつたが、再び女に会ふてがかりがないのである。ある日皇后に会ふと、そのさがしてゐる女の面影に似かよつてゐることに、ふと気がつく……やがて物語は氏忠と皇后の恋になり、後再生した華陽公主の嫉妬を受けるといふところで、途中に切れてゐるのですが、こんな激しい恋物語を述べながら、恋愛を仇心とみ、頻りに道徳的な批難を怖れて言ひ訳を述べてゐたりして、文学としては調子の低いものなのです。作中人物も亦、恋すれば泣き、別れては泣き、嫉妬しては泣き、嫉妬の言ひ訳をしながらも泣き、むやみやたらに泣きすぎて却つてがさつですらあるほどであります。
ところでこの原本は、後光厳院の宸翰《しんかん》として今日伝へられてゐるものが、最も古い写本だとのことなのです。後光厳院と申せば北朝の天子ですが、殺伐な時代の、決して御満足であらせられたとは思はれない日々、手写するほどもこのやうな物語を愛された高貴な人の手を思ひ、人のいのちに宿る物語のなぜか遥かな悲しさに、しばらく感慨を禁じ得ませんでした。
この本の跋に、次のやうな漢文がしるしてあるのです、
花非花霧非霧。夜半来[#(テ)]天明去[#(ル)]。来如春夢幾時。去似朝雲無覓処。
さあ。僕のお喋りはすみました。あんまり子供つぽいことばかり書いて、君は分つて下さるでせうが、ほかの読者に些かてれくさくなりましたので、景気直しに、次の歌はいかがですか。ナポレオンの晩年、突然フランスの民衆が歌ひだした流行歌であります。
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その昔イヴトオの王様は
青史にのこる名も成さず
手柄をたてん心もなくて
送るや半生|寝家《ねや》の中
日暮るれば又いつもいつも
綿の頭巾を冠にて
心も安き高いびき
やんら目出度やな目出度やな
さつてもさても慕はしの君
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底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文体 第二巻第一号」スタイル社
1939(昭和14)年1月1日発行
初出:「文体 第二巻第一号」スタイル社
1939(昭和14)年1月1日号発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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