洩らしても、こいつは案外笑い話のつもりではないのさ。
涼しい風の良く吹き渡る友人の家の二階で、私は友達のおふくろと話をしている。この人は男の子供が三人あるが女の子供がないせいか、男の味方だ。
「女はお勝手の仕事をしてももう駄目です」とこの人は私に語るのだ。男の魂を高潔ならしむるために、選ばれた女はただ美しい装飾でなければならぬとこの人は言う。働く女は男の心を高潔にしないと言うのであった。
私はその言葉の実感には打たれたが、真実には打たれない。悲しい哉私は聖処女の値打を知らない。そして、ひとたび童貞を失った女と、売春婦と、その魂に私は全く差別をつける理由を持たない。幸福なことに、私は、働く女の美しさを知っている! 或いは、働くことによって曇りもけがれもしない魂の存在を知っている!(なぜだって? いや、のろけになるからその理由《いわれ》は語らないことにするよ)
然し私は老婦人の思いがけない逆説に反感を催すどころの段ではなく、むしろ、年老いてなおこんな考えを懐く女のあることに大きな驚きをなしていた。
数日の後、売薬その他いかもの類に造詣の深い友達に会い、また驚きのさめやらぬところから老婦人の言葉の通りを取次いだ。
「それは君」と友人は即座に答えた。
「天理教が同じことをいっとるぜ」
なるほど由来宗教は逆説であるにしても、こんな気の利いた理窟をこねる宗教が日本にもあったものかと私はひとしきり面白がる。
また数日の後、風の良く吹き通る二階で、私は友と、その母親と、ねそべりながら話している。母なる人の立ったあとで私は友にきいた。
「君のおっかさんは良人を命の綱のようにひとすじに信じもし愛しもしていたのだろうね」
友達は顔色を変えて驚いた。
「母は」と彼は吐きだす如く強く言った。
「父の生きてる間というもの、父と結婚したことを後悔しつづけていたよ。父の死後は、ひとすじに憎みつづけているばかりだよ」
私の頭がのどかに廻転を失っている。私は彼の父親の在世の頃を思いだす。玄関に立つと、家内の気配が荒廃し恰も寒風吹きみちた廃屋に立つようであった。その気配をいやがり訪れることを躊躇した人々の顔も浮んできた。
「だからさ」私はなんのきっかけもなくふと言いだして、何も知らない友達に、食ってかかる激しさで喋っている。
「だからさ、モナリザの眼、聖母の乳房を畏れるうちは、行路の代りには喜びが、悲しみの代りには自殺が、あるにすぎないと言うのだ。それらは退屈で罪悪だ! モナリザに、聖母に鞭をふりあげろ。そこから悲しみの門がひらかれ、一切の行路がはじまる。真実や美しいものは誰にも好かれる。誰しも好きに決っているさ。然しそれは、喜びか自殺の代償でしかないじゃないか! 友よ、笑い給うな! 俺を生かしてくれるものは、嘘と汚辱の中にだけ養われているものなんだぜ」
私は言いながら泣きだしそうになっている、或いは今にも怒りだして喚きそうになっている。そのくせ私の瞬間の脳裡には、汚辱の中の聖霊の代りに、モナリザの淫らな眼が映り、私の飽食を忘れた劣情がそれをめぐって蠢めくことを忘れてはいない、その愚かさを白状しなければならないのか?
惚れない女を愛することができるかと? 貴殿はそれをききなさるか? もとより貴殿は男であろう筈はない。
惚れてはいないが然し愛さずにはいられない、女なしに私は生きるはりあいがない。貴殿の逆鱗にふれることは一向怖ろしくもないのだが、偽悪者めいた睨みのきかない凄文句ではなかろうかとヒヤリとしてみたまでのこと。
こう言えばとて私は愛情に就て述べているのではないのです。それに就て尻切れとんぼの差出口をはさむために私はあまりに貧困だ。(これは又謙遜な!)私はひとつの「悲しさ」に就て語っていたつもりなのです。(とは、どうだ!)よしんばそれが諸※[#二の字点、1−2−22]のインチキカラクリの所産であっても、それなしにウッカリ女も口説かれぬという秘蔵の媚薬。
私のために家出した女があった。その良人が短刀を呑んで追いまわす。女とその妹は転々宿を変えなければならなかった。私の方でも、男の短刀を逃げているのか将又切支丹伴天連仕込みの妖術まがいの愁いの類いを逃げているのか恂にハッキリしていないが、これもつきあい[#「つきあい」に傍点]の美徳であろう、これは一人で然し相当に血相も変え転々宿をうつしていた。
暫くの音信不通の間に、女は東京を落ちのび、中山道の宿場町に時代物の侘住居を営んでいる。私もうらぶれた落武者の荒涼とした心を懐いて宿場町へ訪ねていった。
女の妹の不注意から、残してきた子供が母の居場所を知ることになった。子供はもう女学校へ間もないほどの少女である。女は子供を棄てたつもりでいたのだ。子供は母をなつかしんで飛んできた。生憎のこと
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