おみな
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)為体《えたい》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)諸※[#二の字点、1−2−22]の
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母。――為体《えたい》の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。
私はいつも言いきる用意ができているが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかった。
九つくらいの小さい小学生のころであったが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追いまわしていた。原因はもう忘れてしまった。勿論、追いまわしながら泣いていたよ。せつなかったんだ。兄弟は算を乱して逃げ散ったが、「あの女」だけが逃げなかった。刺さない私を見抜いているように、全く私をみくびって憎々しげに突っ立っていたっけ。私は、俺だってお前が刺せるんだぞ! と思っただけで、それから、俺の刺したかったのは此奴一人だったんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍ったように失われていた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまったのだ。その時の私の恰好が小鬼の姿にそっくりだったと憎らしげに人に語る母であったが、私に言わせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突ったった母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであったと、時々思い出して悪感[#「感」に「ママ」の注記]がしたよ。三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだっぴろい誰もいない部屋のまんなかに私がいる。母の恐ろしい気配が襖の向う側に煙のようにむれているのが感じられて、私は石になったあげく気が狂《ふ》れそうな恐怖の中にいる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきずり、窖のような物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真っ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたろうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
あれほど残酷に私一人をいじめぬくためには、よほど重大な原因があったのだろう。私の生れた時は難産で、私が死ぬか、母が死ぬかの騒ぎだったと母の口からよくきいたが、それが原因の一つだろうか。原因はなんでもいいさ。私を大阪の商人に養子にやると母が憎々しげに嘘をついて私をからかったときのこと、私がまにうけて本気に喜んでしまったので、母が流石にまごついた喜劇もある。それから、実は私が継子で、私のほんとの母親は長崎にいると嘘を語って、母は私をからかうことが好きだったが、その話の嘘らしいのが私に甚だ悲しかった。私は七ツ八ツから庭の片隅の物陰へひとりひそんで、見も知らぬふるさと長崎の夢を見るのが愉しかった。
私の子供の頃の新潟の海では、二尋ばかりの深さの沖へ泳ぎでて水へくぐると、砂の上に大きな蛤の並んでいるのを拾うことが出来たものだ。私は泳ぎがうまく、蛤や浅蜊を拾う名手であった。十二、三の頃の話だ。夏も終りに近い荒天の日で、町にいても海鳴りのなり続く暗澹たる黄昏時のことであったが、突然母が私を呼んで、貝が食べたいから海へ行ってとって来てくれと命じた、或いはからかったのだ。からかい半分の気味が癪で、そんならいっそほんとに貝をとって来て顔の前に投げつけてやろうと私は憤って海へ行った。暗い荒れた海、人のいない単調な浜、降りだしそうな低い空や暮れかかる薄明の中にふと気がついて、お天気のいい白昼の海ですら時々妖怪じみた恐怖を覚える臆病者の私は、一時はたしかに悲しかったが、やがて激しい憤りから殆んど恐怖も知らなかった。浪にまかれてあえぎながら、必死に貝を探すことが恰も復讐するように愉しかったよ。とっぷり夜が落ちてから漸く家に戻ってきて、重い貝の包みを無言でズシリと三和土の上に投げだしたのを覚えている。その時、私がほんとは類の稀れな親孝行で誰にも負けない綺麗な愛をかくしていると泣きだした女が一人あったな。腹違いの姉だった。親孝行は当らないが、この人は、私の兄姉の中で私の悲しさのたった一人の理解者だったが。……
さて、こんな風な母と私だ。
ところが私の好きな女が、近頃になってふと気がつくと、みんな母に似てるじゃないか! 性格がそうだ。時々物腰まで似ていたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだろう!
私は復讐なんかしているんじゃない。それに、母に似た恋人達は私をいじめはしなかった。私は彼女らに、その時代々々を救われていたのだ。所詮母という奴は妖怪だと、ここで私が思いあまって溜息を
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