かなかつた。そのころは十銭スタンドの隆盛時代で、すこし歩くつもりならどんな夜更の飲酒にも困ることはなかつたのだ。夜明までやつてゐる屋台のおでん屋も常にあつた。もつとも、この土地にはヨタモノが多く、そのために知らない店へ行くことが不安であつたが、私はもはやそれも気にかけてゐなかつた。
 ある朝、私はその日のことを奇妙に歴々と天候まで覚えてゐる。朝といつても十時半、十一時に近い頃であつた。うらゝかな昼だつた。私は都心へ用たしに出かけるため京浜電車の停留場へ急ぐ途中スタンドの前を通つたのだが、私はその日に限つて、なにがしかまとまつた金をふところに持つてゐた。ちやうどスタンドの女が起きて店の掃除を終へたところであつた。ガラス戸が開け放されてゐたので、店内の女は私を認めて追つかけてきた。
「ちよつと。どうしたのよ。あなた、怒つたの?」
「やあ、おはやう」
「あの晩はすみませんでしたわ。私、のぼせると、わけが分らなくなるのよ。又、飲みにきてちやうだいね」
「今、飲もう」
 私はとつさに決意した。ふところに金のあることを考へた。用たしも流せ。金も流せ。自分自身を流すのだ。私はこの女を連れて落ちるとこ
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