くすりと笑ふばかりであつた。
「おいしい御飯ができますから、待つてらつしやい。食堂のたべものなんて、飽きるでせう」
 女はさう思ひこんでゐるのであつた。私のやうな考へに三文の真実性も信じてゐなかつた。
 まつたく私の所持品に、食生活に役立つ器具といへば、洗面の時のコップが一つあるだけだつた。私は飲んだくれだが、杯も徳利も持たず、ビールの栓ぬきも持つてゐない。部屋では酒も飲まないことにしてゐた。私は本能といふものを部屋の中へ入れないことにしてゐたのだが食物よりも先づ第一に、女のからだが私の孤独の蒲団の中へ遠慮なくもぐりこむやうになつてゐたから、釜や鍋が自然にずる/\住みこむやうになつても、もはや如是我説を固執するだけの純潔に対する貞節の念がぐらついてゐた。
 人間の生き方には何か一つの純潔と貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のやうにぐうたらな落伍者の悲しさが影身にまで泌《し》みつくやうになつてしまふと、何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きてゐられなくなるものだ。
 私はみすぼらしさが嫌ひで、食べて生きてゐるだけといふやうな意識が何より我慢ができないので、貧乏するほど浪費する、一ヶ月の
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