いづこへ
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)泌《し》みつく
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長島|萃《あつむ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ずる/\
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私はそのころ耳を澄ますやうにして生きてゐた。もつともそれは注意を集中してゐるといふ意味ではないので、あべこべに、考へる気力といふものがなくなつたので、耳を澄ましてゐたのであつた。
私は工場街のアパートに一人で住んでをり、そして、常に一人であつたが、女が毎日通つてきた。そして私の身辺には、釜、鍋、茶碗、箸、皿、それに味噌の壺だのタワシだのと汚らしいものまで住みはじめた。
「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、さういふものと一緒にゐるのが嫌ひなんだ」
と、私は品物がふえるたびに抗議したが、女はとりあはなかつた。
「お茶碗もお箸も持たずに生きてる人ないわ」
「僕は生きてきたぢやないか。食堂といふ台所があるんだよ。茶碗も釜も捨てゝきてくれ」
女はくすりと笑ふばかりであつた。
「おいしい御飯ができますから、待つてらつしやい。食堂のたべものなんて、飽きるでせう」
女はさう思ひこんでゐるのであつた。私のやうな考へに三文の真実性も信じてゐなかつた。
まつたく私の所持品に、食生活に役立つ器具といへば、洗面の時のコップが一つあるだけだつた。私は飲んだくれだが、杯も徳利も持たず、ビールの栓ぬきも持つてゐない。部屋では酒も飲まないことにしてゐた。私は本能といふものを部屋の中へ入れないことにしてゐたのだが食物よりも先づ第一に、女のからだが私の孤独の蒲団の中へ遠慮なくもぐりこむやうになつてゐたから、釜や鍋が自然にずる/\住みこむやうになつても、もはや如是我説を固執するだけの純潔に対する貞節の念がぐらついてゐた。
人間の生き方には何か一つの純潔と貞節の念が大切なものだ。とりわけ私のやうにぐうたらな落伍者の悲しさが影身にまで泌《し》みつくやうになつてしまふと、何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きてゐられなくなるものだ。
私はみすぼらしさが嫌ひで、食べて生きてゐるだけといふやうな意識が何より我慢ができないので、貧乏するほど浪費する、一ヶ月の生活費を一日で使ひ果し、使ひきれないとわざ/\人に呉れてやり、それが私の二十九日の貧乏に対する一日の復讐だつた。
細く長く生きることは性来私のにくむところで、私は浪費のあげくに三日間ぐらゐ水を飲んで暮さねばならなかつたり下宿や食堂の借金の催促で夜逃げに及ばねばならなかつたり落武者の生涯は正史にのこる由もなく、惨又惨、当人に多少の心得があると、笑ひださずにゐられなくなる。なぜなら、細々と毎日欠かさず食ふよりは、一日で使ひ果して水を飲み夜逃げに及ぶ生活の方を私は確信をもつて支持してゐた。私は市井の屑のやうな飲んだくれだが後悔だけはしなかつた。
私が鍋釜食器類を持たないのは夜逃げの便利のためではない。こればかりは私の生来の悲願であつて――どうも、いけない、私は生れついてのオッチョコチョイで、何かといふとむやみに大袈裟なことを言ひたがるので、もつともかうして自分をあやしながら私は生きつゞけてきたのだ。これは私の子守唄であつた。ともかく私はたゞ食つて生きてゐるだけではない、といふ自分に対する言訳のために、茶碗ひとつ、箸一本を身辺に置くことを許さなかつた。
私の原稿はもはや殆ど金にならなかつた。私はまつたく落伍者であつた。私は然し落伍者の運命を甘受してゐた。人はどうせ思ひ通りには生きられない。桃山城で苛々《いらいら》してゐる秀吉と、アパートの一室で朦朧としてゐる私とその精神の高低安危にさしたる相違はないので、外形がいくらか違ふといふだけだ。たゞ私が憂へる最大のことは、ともかく秀吉は力いつぱいの仕事をしてをり、落伍者といふ萎縮のために私の力がゆがめられたり伸びる力を失つたりしないかといふことだつた。
思へば私は少年時代から落伍者が好きであつた。私はいくらかフランス語が読めるやうになると長島|萃《あつむ》といふ男と毎週一回会合して、ルノルマンの「落伍者《ラテ》」といふ戯曲を読んだ。(もつともこの戯曲は退屈だつたが)私は然しもつと少年時代からポオやボードレエルや啄木などを文学ど同時に落伍者として愛してをり、モリエールやヴォルテールやボンマルシェを熱愛したのも人生の底流に不動の岩盤を露呈してゐる虚無に対する熱愛に外ならなかつた。然しながら私の落伍者への偏向は更にもつとさかのぼる。私は新潟中学といふところを三年生の夏に追ひだされたのだが、そのとき、学校の机の蓋の裏側に、余は偉大な
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