んなことを考へつくのは感嘆すべきことであるよりも、凡そ馬鹿々々しいことではないか。
新しい蜘蛛の巣は綺麗なものだ。古い蜘蛛の巣はきたなく厭らしく蜘蛛の貪慾が不潔に見えるが、新しい蜘蛛の巣は蜘蛛の貪慾まで清潔に見え、私はその中で身をしばられてみたいと思つたりする。新鮮な蜘蛛の巣のやうな妖婦を私は好きであるが、そんな人には私はまだ会つたことがない。日本にポピュラーな妖婦の型は古い蜘蛛の巣の主人が主で、弱さも強さも肉慾的であり、私は本当の妖婦は肉慾的ではないやうに思ふ。小説を書く女の人に本当の妖婦はゐない。「リエゾン・ダンジュルーズ」の作中人物がさう言つてゐるのだが、私もそれは本当だと思ふ。
私は妖婦が好きであるが、本当の妖婦は私のやうな男は相手にしないであらう。逆さにふつてふりまはしても出てくるものはニヒリズムばかり、外には何もない。左様。外にうぬぼれがあるか。当人は不羈《ふき》独立の魂と言ふ。鼻持ちならぬ代物だ。
人生の疲労は年齢には関係がない。二十九の私は今の私よりももつと疲労し、陰鬱で、人生の衰亡だけを見つめてゐた。私は私の女に就て、何も描写する気持がない。私の所有した女は私のために良人と別れた女であつた。否むしろ、良人と別れるために私と恋をしたのかも知れない。それが多分正しいのだらう。
その当座、私達はその良人なる人物をさけて、あの山この海、温泉だの古い宿場の宿屋だの、泊り歩いてゐた。私は始めから特に女を愛してはゐなかつた。所有する気持もなかつた。たゞ当もなく逃げまはる旅寝の夢が、私の人生の疲労に手ごろな感傷を添へ、敗残の快感にいさゝかうつゝをぬかしてゐるうちに、女が私の所有に確定するやうな気分的結末を招来してしまつたゞけだ。良人を嫌ひぬいて逃げ廻る女であつたが、本質的にタスキをかけた女であり、私と知る前にはさるヨーロッパの紳士と踊り歩いたりしてゐた女でありながら、私のために、味噌汁をつくることを喜ぶやうな女であつた。
女が私の属性の中で最も憎んでゐたものは不羈独立の魂であつた。偉い芸術家になどなつてくれるなと言ふのである。平凡な人間のまゝで年老い枯木の如く一緒に老いてみたいといふのである。私が老眼鏡をかけて新聞を読んでゐる。女も老眼鏡をかけて私のシャツのボタンをつけてゐる。二人の腰は曲つてゐる。そして背中に陽が当つてゐる。女はその光景を私に語るのである。さうなりたいのは女の本心であつた。いくらかの土地を買つて田舎へ住みませうよ。頻りに女はさう言ふのだ。
さういふ女だから私が不満なわけではない。元々私が女を「所有」したことがいけないので、私は女の愛情がうるさくて仕方がなかつた。
「ほかに男をつくらないか。そしてその人と正式に結婚してくれないかね」
と私は言ふが、女がとりあはないのにも理由があり、私は甚だ嫉妬深く、嫉妬といふより負け嫌ひなのだ。女が他の男に好意をもつことに本能的に怒りを感じた。そんな怒りは三日もたてば忘れ果て、女の顔も忘れてしまふ私なのだが、現在に処して私の怒りの本能はエネルギッシュで、あくどい。女が私の言葉を信用せず、私の愛情を盲信するにも一応自然な理由があつた。
私が深夜一時頃、時々酒を飲みに行く十銭スタンドがあつた。屋台のやうな構へになつてゐるので二時三時頃まで営業してもめつたに巡査も怒らない仕組で、一時頃酒が飲みたくなる私には都合の良い店であつた。三十ぐらゐの女がやつてをり、客が引き上げると戸板のやうなものを椅子の上へ敷いてその上へねむるのださうで、非常に多淫な女で、酔つ払ふと客をとめる。けれども百万の人にもましてうすぎたない不美人で、私も時々泊れと誘はれたが泊る気持にはとてもならない。土間に寝るのが厭なんでせう、私があなたの所へ泊りに行くからアパートを教へて、と言ふが、私はアパートも教へなかつた。
この女には亭主があつた。兵隊上りで、張作霖《ちょうさくりん》の爆死事件に鉄路に爆弾を仕掛けたといふ工兵隊の一人で、その後の当分は外出どめのカンヅメ生活がたのしかつた、とそんな話を私にきかせてくれた。無頼の徒で、どこかのアパートにゐるのだが、女は亭主を軽蔑しきつてをり、客の中から泊る勇士がない時だけ亭主を泊めてやる。亭主は毎晩見廻りに来て泊る客がある時は帰つて行き、ヤキモチは焼かない代りに三四杯の酒と小づかひをせびつて行く。この男が亭主だといふことは私以外の客は知らない。私は女に誘はれても泊らないので亭主は私に好意を寄せて打ち開けて話し、女も私には隠さず、あのバカ(女は男をさうよんだ)ヤキモチも焼かない代りに食ひついてエモリみたいに離れないのよ、と言つた。私と男二人だけで外に客のない時は、今晩泊めろ、泊めてやらない、ネチ/\やりだし、男が暴力的になると女が一さう暴力的にバカヤロー行つてくれ
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