くやうになつた。しかし男は見つからなかつた。それでも働く決意はつかないのだ。踊子や女給を軽蔑し、妙な気位をもつてをり、うぬぼれに憑かれてゐるのだ。
 最後の運だめしと云つて、病院の医者を誘惑に行き、すげなく追ひかへされて戻つてきた。夕方であつた。私が図書館から帰るとき、病院を出てくるアキに会つた。私達はそこから神社の境内の樹木の深い公園をぬけてアパートへ帰るのである。公園の中に枝を張つた椎の木の巨木があつた。
「あの木は男のあれに似てるわね。あんなのがほんとに在つたら、壮大だわね」
 アキは例のチャラ/\と笑つた。
 私はアキが私達の部屋に住むやうになり、その孤独な姿を見てゐるうちに、次第に分りかけてきたやうに思はれる言葉があつた。それはエゴイストといふことだつた。アキは着物の着こなしに就て男をだます工夫をこらす。然し、裸になればそれまでなのだ。自分一人の快楽をもとめてゐるだけなのだから、刹那的な満足の代りに軽蔑と侮辱を受けるだけで、野合以上の何物でもあり得ない。肉慾の場合に於ても単なるエゴイズムは低俗陳腐なものである。すぐれた娼婦は芸術家の宿命と同じこと、常に自ら満たされてはいけない、又、満たし得る由もない。己れは常に犠牲者にすぎないものだ。
 芸術家は――私はそこで思ふ。人のために生きること。奉仕のために捧げられること。私は毎日そのことを考へた。
「己れの欲するものをさゝげることによつて、真実の自足に到ること。己れを失ふことによつて、己れを見出すこと」
 私は「無償の行為」といふ言葉を、考へつゞけてゐたのである。
 私は然し、私自身の口によつて発せられるその言葉が、単なる虚偽にすぎないことを知つてゐた。言葉の意味自体は或ひは真実であるかも知れない。然し、そのやうな真実は何物でもない。私の「現身《うつしみ》」にとつて、それが私の真実の生活であるか、虚偽の生活であるか、といふことだけが全部であつた。
 虚しい形骸のみの言葉であつた。私は自分の虚しさに寒々とする。虚しい言葉のみ追ひかけてゐる空虚な自分に飽き飽きする。私はどこへ行くのだらう。この虚しい、たゞ浅ましい一つの影は。私は汽車を見るのが嫌ひであつた。特別ゴトン/\といふ貨物列車が嫌ひであつた。線路を見るのは切なかつた。目当のない、そして涯《はて》のない、無限につゞく私の行路を見るやうな気がするから。
 私は息をひそめ、耳を澄ましてゐた。女達のめざましい肉慾の陰で。低俗な魂の陰で。エゴイズムの陰で。私がいつたい私自身がその外の何物なのであらうか。いづこへ? いづこへ? 私はすべてが分らなかつた。

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(附記 私はすでに「二十一」といふ小説を書いた。「三十」「二十八」「二十五」といふ小説も予定してゐる。そしてそれらがまとめられて一冊の本になるとき、この小説の標題は「二十九」となる筈である)
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底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新小説 第一巻第七号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新小説 第一巻第七号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年7月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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