だして、海岸の温泉旅館へ行つた。すべては私の思ふやうに運んだ。私はアキを蔑んでゐると言つた。そしてこの気取り屋が畸型の醜女にすら羞しめられる女であることを見出した喜びで一ぱいだつたと言つた。さういふ風に一度は考へたに相違ないのは事実であつたが、それはたゞ考へたといふだけのことで、私の情慾を豊かにするための絢《あや》であり、私の期待と亢奮はまつたく好色がすべてゞあつた。私は人を羞しめ傷けることは好きではない。人を羞しめ傷けるに堪へうるだけで自分の拠りどころを持たないのだ。吐くツバは必ず自分へ戻つてくる。私は根柢的に弱気で謙虚であつた。それは自信のないためであり、他への妥協で、私はそれを卑しんだが、脱けだすことができなかつた。
私は然し酔つてゐた。アキは良人の手前があるので夜の八時ごろ帰つたが、私はチャブ台の上の冷えた徳利の酒をのみ、後姿を追つかけるやうに、突然、なぜアキを誘つたか、その日の顛末を喋りはじめた。私はアキの怒つた色にも気付かなかつた。私は得意であつた。そしてアキの帰つたのちに、さらに芸者をよんで、夜更けまで酒をのんだ。そして翌日アパートへ帰ると、胃からドス黒い血を吐いた。五合ぐらゐも血を吐いた。
然し、アキの復讐はさらに辛辣だつた。アキは私の女に全てを語つた。それはあくどいものだつた。肉体の行為、私のしわざの一部始終を一々描写してきかせるのだ。私の女のからだには魅力がないと言つたこと、他の誰よりも魅力がないと言つたこと、すべて女に不快なことは掘りだし拾ひあつめて仔細に語つてきかせた。
★
私は女のねがひは何と悲しいものであらうかと思ふ。馬鹿げたものであらうかと思ふ。
狂乱状態の怒りがをさまると、女はむしろ二人だけの愛情が深められてゐるやうに感じてゐるとしか思はれないやうな親しさに戻つた。そして女が必死に希つてゐることは、二人の仲の良さをアキに見せつけてやりたい、といふことだつた。アキの前で一時間も接吻して、と女は駄々をこねるのだ。
かういふ心情がいつたい素直なものなのだらうか。私は疑らずにゐられなかつた。どこかしら、歪められてゐる。どこかしら、不自然があると私は思ふ。女の本性がこれだけのものなら、女は軽蔑すべき低俗な存在だが、然し、私はさういふ風に思ふことができないのである。最も素直な、自然に見える心情すらも、時に、歪められてゐるものがある。先づ思へ。嫌はれながら、共に住むことが自然だらうか。愛なくして、共に住むことが自然だらうか。
私はむかし友達のオデン屋のオヤヂを誘つてとある酒場で酒をのんでゐた。酒場の女給がある作家の悪口を言つた。オデン屋のオヤヂは文学青年でその作家とは個人的に親しくその愛顧に対して恩義を感じてゐた。それで怒つて突然立上つて女を殴り大騒ぎをやらかしたことがある。義理人情といふものは大概この程度に不自然なものだ。殴つた当人は当然だと思ひ、正しいことをしたと思つて自慢にしてゐるのだから始末が悪い。彼が恩義を感じてゐることは彼の個人的なことであり、決して一般的な真実ではない。その特殊なつながりをもたない女が何を言つても、彼の特殊な立場とは本来交渉のないことだ。私は復讐の心情は多くの場合、このオデン屋のオヤヂの場合のやうに、どこか車の心棒が外れてゐるのだと思ふ。大概は当人自体の何か大事な心棒を歪めたり、外したまゝで気づかなかつたりして、自分の手落の感情の処理まで復讐の情熱に転嫁して甘へてゐるのではないかと思ふ。
まもなく私と女は東京にゐられなくなつた。女の良人が刃物をふり廻しはじめたので、逃げださねばならなかつたのだ。
私達はある地方の小都市のアパートの一室をかりて、私はたうとう女と同じ一室で暮さねばならなくなつてゐた。私は然しこれは女のカラクリであつたと思ふ。私と同じ一室に、しかも外の知り人から距《へだた》つて、二人だけで住みたいことが女のねがひであつたと思ふ。男が私の住所を突きとめ刃物をふりまはして躍りこむから、と言ふのだが、私は多分女のカラクリであらうと始めから察したので、それを私は怖れないと言ふのだが、女は無理に私をせきたてゝ、そして私は知らない町の知らない小さなアパートへ移りすむやうになつてゐた。
私は一応従順であつた。その最大の理由は、女と別れる道徳的責任に就て自分を納得させることが出来ないからであつた。私は女を愛してゐなかつた。女は私を愛してゐた。私は「アドルフ」の中の一節だけを奇妙によく思ひだした。遊学する子供に父が訓戒するところで「女の必要があつたら金で別れることのできる女をつくれ」と言ふ一節だつた。私は、「アドルフ」を読みたいと思つた。町に小さな図書館があつたが、フランスの本はなかつた。岩波文庫の「アドルフ」はまだ出版されてゐなかつた。私は然
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