ことを要し、犯人がその家の住人であることを、ほゞ確定させてしまう。犯人を却って分らせるばかりで、必然性がなく、ナンセンスである。
女から包みを渡され、女が殺され、包みをひらいて刺青した三人の写真が現れた時には、もう犯人は分ってしまう。このトリックはあまり幼稚すぎる。見ず知らずの人間に包みを渡すということには、そこにトリックがあること歴然たるもので、姉と妹は、刺青が、腕の半分まである姉、その下の方まである妹、被害者のからだは刺青の部分がきりとられて、残された腕によって被害者が妹では有り得ない。さすれば、包みを渡した意味はそこにあり、トリックがそこにあって、つまり、被害者を姉に見せかけて、実は妹だということが直ちに判明するのである。
あとは蛇足で、それを、もったいぶって書いているから、尚、やりきれないものがある。この犯罪が実際に行われゝば、名探偵が登場する必要はなく、日本の刑事はすぐ謎を解くにきまっていますよ。いわんや将棋などやる必要は毛頭ない。
日本の探偵作家(外国の作家も)たちはやたらと作中に刑事をボンクラに仕立てゝ名探偵を登場させるが、帝銀事件の如く、実際の犯罪は、偶然に行われるから、却々《なかなか》犯人がつかまらないのは当然で、これは刑事の頭が悪いのでもなく、近代捜査法を知らないのでもなく、偶然だから、つかまらないのだ。動機もハッキリしなければ、登場人物も、日本人全部の中から探さゞるを得ないのだから、益々つかまらない。刺青殺人事件のようなトリックなら、日本の刑事はすぐ見破るにきまっている。
然し、この作者は、すぐ見破られるトリックをつかっているから、そこが良いところだとも云える。つまりケレンがないのだ。論理性はあるのだ。やたらと不可能不可解の奇術を弄していない。たゞ、トリックの組み立て方が幼稚だったのである。
たとえば、見ず知らずの人に包みを渡すというあの不自然さが、そもそも、このトリックを幼稚にしており、ハハア、これはクサイ、こゝにトリックの鍵があるな、とすぐ思わせる。
姉と妹の刺青の腕の部分が違うということを、もっと、自然な、さりげない方法で読者に示す工夫が、この小説のヤマなのである。この作者はそこに工夫が足りなかった。そこのところを巧みに提出することに成功すれば、このトリックも、かなり成功するのである。
その写真を被害者の兄に見せると、ビック
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