ではこまるのだが)、その一枚をとって、ワクのなかに四十五度にはめられた透明な硝子《ガラス》の上の本物の札の上におくのである。このワクにはめられた硝子は太陽の光が明るく通るように、窓にくっつけておかれる。そこで彼は、本物からのスカシ画を利用して、先のシャープな鉛筆で着実にトレースをはじめるのだ。そうして表が出来上ると、それをひっくり返して、他の反面へトレースを続けてゆく。
大体、一どに半ダースから一ダースのニセ札を鉛筆でトレースし終ると、次にその鉛筆のトレースの上を、紙の乾くのを待って、インクでトレースしはじめる。どの位無駄を出したかは分らないが、恐らくわずかに違ない。彼のような細心なエキスパートになると、そう無茶苦茶に失敗を出すことはないものだ。彼は特にそのニセ札の肖像にいたっては、すばらしいものであった。また彼は、大蔵省印を描くについては細心の注意を払った。これがまずく描かれるとニセ札は直ぐ見破られるものだからである。拡大鏡で見れば直ぐ分るのだ。
ところで、彼の芸術家としての才能の生かされているのは、旋盤細工になっている札の裏面の場合である。機械仕掛の腐蝕製版のトレースを再生するかわり、彼は札の裏にブラッシュでそれを描き出したのである。一眼では勿論、注意して見てもそれが腐蝕製版でないことが分らないほど見事にやってのけたのである。
さて、これでニセ札は出来上った。いよいよこのニセ札を使って、本物の紙幣、貨幣を手に入れなければならない。そこで彼は月々一回ニュー・ヨークへ商用と称して出掛けるたびに、自信満々のニセ札を、その滞在の二三日間に、本物の札や銀貨とすりかえて帰るというコースをくり返すのだ。そうして、このコースが、十七年間(一八七九―一八九六年)細心と冷静のうちに続けられたのだから、驚く外はない。
いよ/\“能筆ジム”の最後のニセ札使いの旅の日のことを話さなければならない。その彼は、農夫の服装を身につけ、彼の傑作である二十ドル札を五枚と五十ドル札を一枚ポケットにして、ニュー・ヨークに出かけた。二十ドルのニセ札を三枚処分したのちであった。彼は、三番街と十六番通りのコーナーにある食糧品店ジョン・ウェリマンの店に入っていった。彼は壜詰の洋酒が欲しかった。その店の女店員がエプロンで両手をふきつゝ奥の部屋から出て来た。彼は、自分で洋酒の壜詰を手にとって、三番街の遠く先に荷車が置いてあるから、包んでくれなくともよいと云いながら、二十ドルのニセ札を女店員に手渡した。
幸といおうか、不幸といおうか、その女店員がニセ札を受け取ったとき、彼女の指先はまだ濡れていた。彼女は“能筆ジム”に釣銭を渡したが、相手が店から姿を消してまもなくインクが自分の指先についていることに気づいた。一瞬このインクのしみが何からついたものかと戸惑った。そのとき彼女は、反射的に自分があつかった二十ドル紙幣を見つめていた。なるほどその札の通し番号は見事に書かれてはいるが、ほんの少しよごれているようだ。好奇心が首をもたげた。唇の上でもう一度指を濡らして、札の上のインクをこすってみた。まさに彼女の直感の通りであった。自分がニセ札をつかまされたことに気づいて、主人を呼び、事の次第を説明した。ウェリマンとその女店員は入口から飛び出してみたが、もうニンゲルの姿はなく、三番街にも荷車など勿論見あたらなかった。ニンゲルは見事消え失せたのだ。そのころ彼は、ニュー・ジャージー通いの渡船の着くコートランド・ストリート行の鉄道馬車に乗り込んでいた。しかし、彼のニセ札が見破られたことも、彼がニセ札使としてつけられていることも、警察に知らされていることも、とんと御存知なかった。
コートランド・ストリートに着くと彼は、一軒の酒場に入って、ビールを一杯と葉巻受一本を小銭で支払った。それから、二杯目のビールを受け取って、釣銭なしの支払をすませた。そこで彼はそのビールを立のみしながら入口のドアーの方へ歩き出した。半分程も行った処で、丁度何かを思い出したように、もとの席に引き返した。
「あゝ、わしはニュー・ジャージーのわしの農場の雇人に支払う小銭を作ってくることを忘れた。もう銀行は閉っている。あんたんとこで、五十ドル札を小まかくしてくれんかね?」と、ニンゲルは主人に話しかけた。
ニュー・ジャージーの農夫たちは、この土地のこの種の店にとっては上得意なので、主人は「札で四十ドル、銀貨で十ドルなら両替いたしましょう」と云いながら、バアーの上に十ドル札四枚を並べ、十ドルを銀貨でニンゲルに手渡たした。しかし、この時“能筆ジム”はニセ札使として全くまずいヘマ[#「ヘマ」に傍点]をやらかしてしまった。彼は両替の金を勘定しなかった。独逸人農夫の注意深さをよく知っている酒場の主人は、奇異に感じた。彼は、札をかき寄
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