“能筆ジム”
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)独逸《ドイツ》
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(例)五十|弗《ドル》
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(例)ヘマ[#「ヘマ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
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雑誌「日本小説」に「不連続殺人事件」を連載し、探偵小説の鬼江戸川乱歩先生から過分なる賞讃をいたゞいて以来、僕は文壇随一の探偵小説通と自他ともに許す存在にまつりあげられてしまった。しかしまあ、余り通などとまつり上げられない方がいゝ。僕はおかげで「小説新潮」に「安吾捕物」まで書かされ、はてはA・クリスティの探偵小説を飜訳してくれないかなぞと喰さがる編集者も現れるという有様だ。ところで今日は少し眼先を変えて“能筆ジム”と呼ぶニセ札造りを御紹介しよう。
ニセ札造り“能筆ジム”は本名をエマニュエル・ニンゲルといゝ、アメリカの贋造紙幣史上では傑出したニセ札造りの一人で、十七年間も発見されなかったというその道の芸術家であった。発見されたときの次第は後に話す積りだが、あのほんの些細な偶然がなかったら、十七年はおろか千年でも彼の造ったニセ札はそのまゝ流通しつゞけたかも知れないほど見事なものであった。しかし、当局の威信のためにも、読者諸君のためにも、ちょっと申上げておかねばならぬことがある。それは彼が現代の人間ではないということだ。当今のようにニセ札追求の組織と技術の進んだアメリカの当局の前には、さすがの“能筆ジム”も、その最初の一枚で御用となり、従って安吾先生のお目にもとまらなかったであろうし、また彼のニセ札が蒐集家によって額面よりはるかに高く評価されるという珍現象も起りえなかったであろう。
“能筆ジム”は生粋のプロシャ人で、独逸《ドイツ》ではペン画家であった、彼は、一八七九年より余り遠くない以前、アメリカに渡ってオハイオ州のコロンブスに、妻をはじめ娘三人息子一人と住むことになったが、そこにはしばらくの間で、ニュウ・ジャージー州のウエスト・フィールドに移り、その後また同じ州のフランクフルトに住み、農場を持ち、倹約家の立派な農夫になりすましていた。
事実、逮捕になるときまで、彼は隣人たちや多くの友人たちから、寛大で思慮深い性格の男で、家族にとっては申分のない働き手であると思われていた。また、彼の農場は抵当に入ったようなこともなかったから、どうみても金は残るし、銀行預金だってがっちりありそうであった。“能筆ジム”の奥方は、自分の亭主が逮捕されるなんてトンデモ・ハップン、あの人は立派な亭主で、思いやりのある父親で、悪いことをするなんて思いもよらぬことでござんすと、言いはったとか。それもその筈で、この奥方は御自分の亭主が、彼女が自慢に思っていた芸術家としての才能を、犯罪行為に用いていたなどとは、夢にも考えていなかったのだ。亭主が二階にあがり、スタジオに当てられた部屋に入って、戸をぴったり閉ざしているときなど、彼女は亭主は画を描き、でなければ読書三昧にふけっているものとばかり考え、不思議には思わなかった。それに、ニンゲルは古い型の亭主で、家族は彼に絶対服従、彼のすることには口をはさませなかったから、彼女にしても何をしているのか聞く勇気さえなかった。
ニンゲルは、買物には特に注意を払った。週に一度近くの街のソマーヴィルに出かけて、肉類をはじめ食糧品を買い、時には女房や子供ともども出かけて衣類などを購うこともあった。そうして、女房には充分金を与えて、不満のないようにしていた。その上彼は、月に一度位の割合で商用のためにニュウ・ヨークに出かけることにしていたが、彼が株の思惑でつくったと称する金を持帰って、ほくほくしているのを見ても女房は別に不思議とも思わなかった。寧ろ亭主はなか/\の腕きゝで、うまくやったものと考えてござったのである。
“能筆ジム”が十七年間もふんづかまらなかったのは、まったく秘密をまもったからであった。彼は、自分の仕事を誰れにも喋らなかったし、どんな場合にも扉を開け放っておかなかったように、大変な注意を払っていたようだ。ニンゲルのニセ札造りとしての成功は、実に彼の画家としての才能と、プロシャ人特有の万全を期する性格のおかげであった。彼はどんなにニセ札を造る必要に心のせくのを感じても、悠然とかまえて、その当時政府発行の紙幣に使用されている紙とほとんど同じ程度の厚さと強度を持ったものを選んだ。そうしてこの紙を当時の大型の札の大きさに正確に裁断して、それが終ると、この紙をコーヒーの薄い溶液のなかで処理して、年代をつけた。
その紙がまだ濡れている間に、(だからと云って滴《しず》くのたれているよう
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