ことが、すでに大衆の中に生きていないことのハッキリした刻印なのだ。大衆の中に生きている芸術は、常に時代的で、世俗的で、俗悪であり、粋や通という時代から取り残された半可通からはイヤがられる存在にきまったものだ。
落語というものが、昔のまま、庶民芸術の様相だけもちながら、全然庶民性や、時代性を失っているから、いつの時代にも、金語楼や歌笑に類するもの、つまり、時代感覚をとり入れようとする反逆児が、今後も常に生れてくるにきまっている。
しかし、金語楼にしろ、歌笑にしろ、その時代感覚というものは幼稚千万なものだ。落語という窓の中から外を眺めて採りいれたにすぎないもので、決して時代を創造するような一級的なものではなかった。だから、今後の落語界に、歌笑以上の新人が現れるだろうことは想像にかたくない。
しかし、歌笑に一つの独自性があったとすれば、彼の芸の背景にしっかりと骨格をなしていた醜男の悲哀であったろう。それは菊池寛の骨格をなしていたそれよりも、もっとめざましく生ま生ましいものであったし、彼はそれを、ともかく生ま生ましくない笑いに転置することに成功していたのである。
それが歌笑の強味であっ
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