だしく低い待遇をうけているのは気の毒である。エンタツの天才や、時代感覚にくらべれば、歌笑などは、金魚とミミズぐらいの差があって、戦後にえた人気は、身に余るものであったろう。
しかし、落語家が、歌笑をさして漫談屋だとか、邪道だというのは滑稽千万で、落語の邪道なんてものがあるものか。落語そのものが邪道なのだ。
落語が、その発生の当初においては、今日の歌笑や、ストリップや、ジャズと同じような時代的なもので、一向に通でも粋でもなく、恐らく当時の粋や通の老人連からイヤがられた存在であったろうと思う。つまり、最も世俗的なものであり、風流人の顔をしかめさせた湯女《ゆな》的な、今日のパンパン的現実の線で大衆にアッピールしていたものであったに相違ない。
それが次第に単に型として伝承するうちに、時代的な関心や感覚を全部的に失って、その失ったことによって、時代的でない人間から通だとか粋だとかアベコベにいわれるようになった畸型児なのである。
明治、それから、大正、昭和という途方もなく飛躍的な時代を経過して、昔の型から一歩もでることができずに、大衆の中に生き残ろうなどとムリのムリで、粋とか通とかいわれる
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