たが、彼の未来にとっては、これが又、決定的な悲観的因子をなしていたろうと思う。金語楼のハゲ頭は、愛くるしくて、映画の笑いにも適し、三流のアチャラカ・ボーイとして通用するであろうが、歌笑の顔は映画には適さない。笑いを誘うと同時に妖怪味をただよわしているのだ。これを映画に生かすには一流の天才がいるが、歌笑には、そのような天才はめぐまれていないのだ。この顔を映画で生かす天分があれば、それはもう、一流中の一流の芸術家なのだから。それを歌笑にのぞむことはできない。彼は惜しまれて死ぬに適した時に死んだといえる。
だいたい庶民性をまったく離れて、骸骨だけの畸形児となった落語のようなものから、けっして一流の芸術家は現れない。
一流たるべき人間は、はじめから、時代の中へとびこむにきまっており、ジャズや、ストリップや、そういう最も世俗的な、俗悪なものの中から育ってくるにきまったものだ。法隆寺や東照宮がそういう時代的な俗悪な産物であったように、落語とても、もとは、そのようにして生れたものだが、落語が一流でありえたとすれば、それが時代と共に育っていた時だけの話だ。
現代の代表的な建築は、法隆寺や東照宮を摸し、幽玄や、風流や、粋をさぐったものからは生れてこないにきまっている。もっと時代的な俗悪なもの、実用的なものが、後日において、法隆寺と同じ位置に到達するものなのだ。
だから、夢声のような一流の芸人が、映画説明という俗悪ではあるが、最も切実に時代的であった不粋なものから生れて育ってきたのは理にかなっているが、落語のように、すでに時代とかけ離れたものから、一流のものが現れてくる見込みはない。歌笑以上の新人は現れるかも知れないが、せいぜい二流どまりで、それ以上ではありえないだろう。それ以上でありうる素質の持主は、かならず、もっと俗悪な、時代的なものへ飛びこんで生きようとするにきまっているから。
現代においては俗悪な、そして煽情的な実用品にすぎないジャズやブギウギが、やがて古典となって、モオツァルトやショパンのメニュエットやワルツと同じ位置を占めるようになるものなのだ。いかなる典雅な古典も、それが過去において真に生きていた時には、俗悪な実用品にすぎなかったのである。
落語の新人に一流の芸術をのぞむのはムリであるし、又、落語の古典的な伝承者に一流の芸術をのぞむのはなおさらムリだ。時代に生
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング