死刑囚最後の日
LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE
ユゴー・ヴィクトル Hugo Victor
豊島与志雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凍《こご》えあがり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)弾薬|盒《ごう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から5字上げ]ビセートルにて

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)※原題の「LE DERNIER JOUR D'UN 〔CONDAMNE'〕」は
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

       一

[#地から5字上げ]ビセートルにて
 死刑囚!
 もう五週間のあいだ、私はその考えと一緒に住み、いつもそれと二人きりでおり、いつもその面前に凍《こご》えあがり、いつもその重みの下に背を屈めている。
 昔は、というのもこのいく週かがいく年ものように思われるからであるが、昔は私も他の人々と同じように一人前の人間だった。どの日にも、どの時間にも、どの分秒にも、それぞれの思いがあった。私の精神は若くて豊かで、気まぐれな空想でいっぱいだった。そして楽しげにその一つ一つを、秩序もなく際限もなく、生活のあらい薄い布地を無尽蔵な唐草模様《からくさもよう》で飾りながら、つぎつぎにひろげて見せてくれた。若い娘、司教のきらびやかな法衣、たけなわな戦争、響きと光とに満ちてる芝居、それからなお若い娘、夜はマロニエの広い茂みの下のほの暗い散歩。私の想像の世界はいつもお祭りみたいだった。私は自分の望むものを何でも考えることができた。私は自由だった。
 今は私は囚《とら》われの身である。私の体は監獄の中に鉄鎖に繋がれており、私の精神は一つの観念の中に監禁されている。恐ろしい、血なまぐさい、一徹な観念だ。私はもう一つの考えしかもたず、一つの確信しか持たず、一つの確実さしか持っていない、すなわち、死刑囚!
 私がどんなことをしようと、それが、その地獄めいた考えが、いつもそこに控えていて、鉛の幽霊のように私のそばにつっ立ち、二人きりなのに嫉妬深く、私のあらゆる気散じを追い払い、みじめな私と向かい合い、私が顔をそむけたり眼をつぶったりしようとすれば、その氷のような手で私をゆさぶる。私の精神が逃げだそうとするところにはどこにでも、あらゆる形となって滑りこんでき、人が私に話しかけるどの言葉にも、恐ろしいきまり文句として交わってき、監獄の呪わしい鉄門に私と一緒にしがみつき、目覚めてるあいだじゅう私につきまとい、ぎくりぎくりとした私の眠りをうかがい、そして夢の中にも首切り庖丁の形となって現われてくる。
 私はそれに追っかけられ、はっと目を覚まして考える。「ああ、夢なんだ!」ところが、重い瞼《まぶた》をようやく開きかけて、自分を取り巻いてる恐ろしい現実の中に、監房のしめっぽいじめじめした床石の上に、夜灯の青ざめた光の中に、衣服の布の粗い織り糸の中に、監獄の鉄門ごしに弾薬|盒《ごう》が光ってる警護兵の陰鬱《いんうつ》な顔の上にいたるところに書かれてるその宿命的な考えをよくも見ないうちに、すでに一つの声が私の耳に囁《ささや》くような気がする、「死刑囚!」と。

       二

 八月のうるわしい朝のことだった。
 もう三日前から、私の裁判は始められていた。三日前から、私の名前と私の犯罪とは、毎朝たくさんの傍聴人を呼び寄せて、死骸のまわりに烏《からす》が集まるように法廷のベンチに集めていた。三日前から、判事や証人や弁護士や検事たちが、あるいは奇怪なあるいは血なまぐさい、そしていつも陰惨な宿命的なふうで、幻灯のように私の前を往き来していた。初めの二晩は、不安と恐怖とで私は眠れなかった。三日目の晩は、倦怠と疲労のため眠った。真夜中に、陪審員らを評議してるままに残して、私は監獄の藁《わら》の上に連れ戻され、そこですぐに、深い眠りに、忘却の眠りに落ちたのだった。それがいく日目かに得た最初の休息の時間だった。
 そしてまだその深い眠りの底にある時に、私は呼び起こされた。その時は、看守の重い足音や鉄鋲《てつびょう》の靴音や、その鍵鎖《かぎくさり》のがちゃつきや、閂《かんぬき》の太いきしりなどでは、私は昏睡《こんすい》からさめなくて、荒々しい声を耳に浴《あび》せられ、荒々しい手で腕をつかまれた。「起きないか!」私は目を開き、びっくりして体を起こした。その時、監房の狭い高い窓から、隣りの廊下の天井に、それが私の垣間見《かいまみ》ることのできる唯一の天空だったが、そこに黄ばんだ反映のあるのが目についた。牢獄の暗闇になれてる目は、そういう反映で太陽の光を見て取ることができるものだ。私は太陽が好きである。
「天気だな。」と私は看守に言った。
 彼はそれが言葉を費やすほどのことであるかどうかわからないかのように、すぐには返事をしなかった。が、次に多少努めてぶっきらぼうにつぶやいた。
「そうかもしれない。」
 私は身動きもしないで、まだ頭はなかば眠り、口には微笑を浮かべて、廊下の天井を染めてるそのやさしい金色の反射に目をすえていた。
「今日はいい天気だな。」と私はくりかえした。
「うむ。」と看守は答えた。「みんな君を待ってるぞ。」
 そのわずかな言葉は、一筋の糸が虫の飛ぶのを妨げるように、私を激しく現実の中に投げおろした。そして稲妻の光に照らされたように、突然私の目に再び映ってきた、重罪裁判の薄暗い広間、血なまぐさい服をつけてる判事らの円形席、茫然《ぼうぜん》たる顔つきをしてる証人らの三列、私のベンチの両端に控えてる二人の憲兵、動きまわってる黒い法服の人々、影の底にうようよしてる群集の頭、私が眠ってるあいだじゅう起きていた十二人の陪審員らが、私の上にじっとすえてる目つき!
 私は立ちあがった。歯はがたがた鳴り、手は震えて服を探しあてることができず、足は弱りきっていた。一足ふみ出すと、荷を背負いすぎた人夫のようによろめいた。それでも私は看守のあとについていった。
 二人の憲兵が監房の入口で私を待ち受けていた。私は再び手錠をはめられた。それには複雑な小さな錠前がついていて、注意深く鍵がかけられた。機械の上にまた機械をつけるのであるが、私はされるままにまかした。
 私たちは内部の庭を横ぎっていった。朝の鋭い空気が私を元気づけた。私は頭をあげて歩いた。空は青々としていて、暖かい太陽の光が、多くの長い煙突に断ち切られ、監獄の高い薄暗い壁の上方に、大きな光の角度を描いていた。果たして上天気だった。
 私たちは螺旋形《らせんけい》に回ってる階段をのぼっていった。そして一つの廊下に出《い》で、なおも一つの廊下に出で、なおも一つ廊下を通った。それから低い扉が開かれた。そうぞうしい熱い空気が私の顔に吹きつけてきた。重罪裁判廷の群集の息吹《いぶき》だった。私は中にはいった。
 私の姿を見て、武器や人声のどよめきが起こった。腰かけが音高く置き直された。仕切りの板がきしった。そしてその長い広間を、兵士らに遮られてる二塊りの人々の間を通ってゆくあいだじゅう、私には自分自身が、茫然と前にのりだしてるそれらのあらゆる顔を動かす操り糸のゆわえてある中心であるように思えた。
 その瞬間、私はもう鉄枷《てつかせ》がつけられていないことに気づいた。しかしどこでいつそれが取りのけられたかを思い出すことはできなかった。
 その時ひどくひっそりとなった。私は自分の席に来ていた。群集の中にどよめきがやんだ時、私の頭の中のどよめきもやんだ。私は突然、それまでぼんやり垣間見《かいまみ》てるにすぎなかった事を、決定的な瞬間がきてるという事を、自分の判決を聞くために自分は出て来てるという事を、はっきり悟った。
 そういうふうにして私はそのことを悟っても、なぜかはわからないが、別に恐怖の念を覚えなかった。窓は開かれていた。町の空気と物音とが外部から自由にはいりこんでいた。広間はちょうど結婚式でも行なわれるかのように明るかった。楽しげな日の光が、あちらこちらに明るいガラス窓の形を描いて、それがあるいは床板の上に長くのび、あるいはテーブルの上にひろがり、あるいは壁の角に折れ曲っていた。そして窓からその明るい菱形までそれぞれ光線のために、金色の埃《ほこり》の大きな角柱が空中に浮きだしていた。
 裁判官らは広間の奥に、もうじきにすんでしまうという喜びのためであろう、満足げな様子をしていた。裁判長の顔は、ある窓ガラスの反映で軽く照らされていて、何か平静な善良なものを浮かべていた。一人の若い陪席判事は、特別にその後ろの席を与えられてるばら色の帽子のきれいな婦人を相手に、胸飾りをいじりながらほとんど愉快げに話をしていた。
 陪審員らだけが、青ざめてがっかりしているように見えた。しかしそれは明らかに夜どおし起きていた疲労のせいだった。ある者はあくびをしていた。彼らの様子のうちにはどこにも、死の判決をもたらしたばかりのようなところは見えなかった。それらの善良な市民らの顔の上には、ただ眠りたいという欲望しか見て取れなかった。
 私の正面に、一つの窓がすっかり開ききってあった。河岸通りの花売娘らの笑い声が聞えていた。そして窓べりには、黄色のかわいい草が一本石のすきまに生えて、すっかり日の光を浴びながら風と戯れていた。
 それらの多くのやさしい感じの中で、どうして不吉な考えが起こることができたろう。私は空気と日光とにひたされて自由よりほかのことは考えることができなかった。周囲の日の光と同じように、希望が私のうちに輝いてきた。私は信頼しきって、解放と生命とを待つように自分の判決を待った。
 そのうちに私の弁護士がやって来た。人々は彼を待っていた。彼はうまうまと十分に食事をしてきたところだった。自分の席につくと、彼は微笑を浮かべて私のほうをのぞきこんだ。
「うまくいくだろう。」と彼は私に言った。
「そうでしょうか。」と私も微笑《ほほえ》んで軽い気持で答えた。
「そうさ。」と彼は言った。「まだあの連中がどう申告したか少しも分らないが、しかし予謀の点はむろん取りあげなかったろう。そうすれば、終身懲役だけのことだ。」
「なんですって!」と私は憤然として言った。「そんならいっそ死刑のほうがましだ。」
 そうだ死刑のほうが! とある内心の声が私にくりかえした。それにもとより、そう口に出して言ったところで、なんの危ういことがあろう。死刑の判決はいつも、夜中に、蝋燭《ろうそく》の光で、黒い薄暗い室で、冬の雨天の寒い晩にくだされたのではないか。この八月に、朝の八時に、こんなよい天気に、あれらの善良な陪審員らがあって、そんなことがあるものか! そして私の目はまた、日の光を受けてる黄色いかわいい花の上に向いた。
 弁護士だけを待ってた裁判長は、突然私に起立を命じた。兵士らは武器をとった。電気じかけででもあるように、全会衆は同時に立ちあがった。法官席の下のテーブルについてるやくざな無能な顔つきの男、たぶん書記だろうと私は思うが、その男が口を開いて、私の不在中になされた陪審員らの評決を読みあげた。冷たい汗が私の全身から流れた。私は倒れないようにと壁につかまった。
「弁護士、君は本刑の適用について何か言いたいことがあるか。」と裁判長はたずねた。
 私のほうでは言いたいことばかりだったが、何一つ口に出てこなかった。舌が顎にくっついてしまっていた。
 弁護人は立ちあがった。
 私にも分ったが、彼は陪審員らの申告を軽減しようとつとめ、彼らが申請した刑のかわりに、他の刑を、先刻彼がそれを望んでいるのを見て私がひどく気色《きしょく》を害したあの刑を、そこに持ってこようとつとめた。
 私の憤慨の念はひどく強くて、私の考えを争奪してるあらゆる感情を貫いて現われてきたほどだった。私はすでに彼に言ったことを、いっそ死刑のほうがましだというこ
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